ぶらぶら人生

心の呟き

九月尽

2020-09-30 | 身辺雑記

 九月尽とは、陰暦九月の末日のことで、俳諧では秋の終わりを惜しんでいうことばのようだ。

 今日で九月が去る。老いの身には、烏兎匆匆の思いが強い。

 今夕、九月のカレンダーをめくっておいた。残りのカレンダーがいよいよ薄くなった。

 中身の乏しい日々を重ねつつ、実感できるのは、自らの老いの深まりばかり。

 

 

 今朝、庭に出て眺めた東の空。雲も、なんだか慌ただしげである。


 半世紀前、山峡の町・吉賀町で3年間を過ごした。

 日ごと、安蔵寺山の威容や盛ッ太ヶ岳のこじんまりした三角山を眺め、夏には吉賀川に河鹿の声を聞き、厳冬には豪雪に閉じ込められるなどなど、思い出の多い町。

 今朝、その町でご縁のあった知己から電話があり、時間を示して、訪問を受けた。

 数年前から、秋の稔りが届けられるようになった。今年も新米をたくさんいただいた。山の上質の水で育てられた美味しいお米である。幸せ!


 知己を駐車場まで見送った。その途次に、今開花したかと思える曼珠沙華が、秋陽に燃えていた。

 

 

 

  

   椿の実

  


  花芽をたくさんつけ始めた椿の樹下に立って、庭師のOさんが、意図的に残してくださった数個の実を探す。

 すでに完熟して落下したもの、割れかけたもの、殻の中に実の一部を残しているものなど色々であった。(写真)

 椿の実をみると、幼い日を思い出す。

 母は、茶褐色の殻の中から乳白色の実を取り出し、白い綿布に包んで私に渡し、敷居磨きの手伝いを与えた。油分を含む実は、たちまち敷居に艶を生み、美しくなるのが嬉しかった。


[昨夜は、この項を完成する前に、一週間前と同じ徐脈と激しい乱脈(不整脈)がおこって不安になり、仕事を置いて早く休んだ。したがって、月またぎのブログとなった。]

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曼珠沙華とトクサ

2020-09-29 | 小庭の四季

 数日前から、曼珠沙華の茎がぐんと伸び、頂端に赤い蕾が見え始めた。

 昼過ぎ、庭に出てみると、大小二つの花が開いていた。

 いつのまにか、トクサが地所を拡大し、曼珠沙華の地を奪わんばかりである。

  

  


 花はそれぞれ特色をもつが、多くの人々の目に触れる花のなかで、曼珠沙華ほど個性的な花は少ないように思う。

 有毒植物で、その形状の不思議からか、呼称も様々である。(「鱗茎は石蒜といい薬用・糊料とする」とも辞書には記されている。)

 「彼岸花」が、本来の呼び名らしい。が、私は、<曼珠沙華>という呼称が好きで、そう呼んでいる。(考えてみると、「彼岸花」つまり、<「彼岸」の花>と名づけられた段階で、不吉感と結びついたのであろう。「此岸花」ではないのだから。)

 [広辞苑]で、「彼岸花」を調べてみると、以下の呼び名が出ていた。

 <カミソリバナ><シビトバナ><トウロウバナ><捨子花><天蓋花><曼珠沙華>

 さらに、インターネットで調べてみると、地方によって、呼び名が様々あるようで、上記のほかに、<葬式花><墓花><地獄花><火事花>などなど、なんとなく不吉を感じさせる名前が紹介されている。

 昔は、特に忌み嫌われる花だったのだろうか? と、思わせるような呼称ばかりである。

 私の父(明治31年生まれ)も、なんとなく嫌っている様子だった。

 それが察せられたので、裏庭に紅白の曼珠沙華を植えてもらったのは、父の死後、数年を経てからであった。

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「早起きは三文の徳(得)」

2020-09-28 | 身辺雑記

  今朝は、目覚めが良く、新聞を読み終えてベッドを出たのが、6時半前であった。

 ラジオ体操の時間! と、頭に閃いた。

 施設の自室では、ラジオ体操をするように心がけていた。

 が、2月末、コロナ禍の問題が生じて以来(施設に患者が出たわけではないのだが、外部からの訪問が禁じられ)、私は施設行きを遠慮し、この際、完全な自立がどこまで可能か試している。一番の問題は食事を自分で用意することであるが、それもなんとかこなしている。(施設で一番ありがたいことは、3食、自室へ運んでもらえることである。)

 二月末以来だから、半年以上、施設(私は別荘と呼んでいる)に帰ることはしていない。と同時に、ラジオ体操もサボっている。

 今朝、寝室の衣装ダンスの鏡の前で、久々にラジオ体操をした。鏡にうつる自分の体の動きを眺め、見られた様ではないと悲観するほど不格好ではない、と感じた。(自分に甘い?)

 手足を動かして、痛みを感じるところもない。

 体を動かすと、快適である。(明日からも早起きして、ラジオ体操を続けよう! とは思ったが、意志薄弱な私には、継続の自信はない。起きる元気のある日には…、ということにしておこう。)

 先週は、心身の冴えない状態で、かかりつけの医院に三日も出向くことになったし、<24時間心電図>の分析結果はまだ出ていないので、状況が好転したわけではないのだが、とにかく動ける間は、体を動かそうと心を定めると、意外に気分まで軽快なものとなった。

 数独一問も、苦労せずに解答できた。

 <早起きは三文の得>を実感。いつもだらだらし過ぎて、体調不良を自ら生んでいるのかもしれない。


 食事の後、昨夜、ブログに取り上げた外山滋比古著作8冊を書棚に片づけた。

 と、その下の棚に、さらに6冊の本の存在に気づいた。

 (外山滋比古さんの著作のうち、14冊を読んだことなる。)

 見れば、今朝気づいた方こそ、比較的最近読んだ本であった。


 以下、書名を追記しておくことにする。(発行年、2017年〜2019年、著者晩年の本。)

 ① 『知的な老い方』

 ② 『こうやって、考える。』

 ③ 『「マコトよりウソ」の法則』

 ④ 『老いの整理学』

 ⑤ 『忘れるが勝ち!』

 ⑥ 『100年人生七転び八転び』<「知的思考錯誤」のすすめ>


 は、昨年(2019年)6月9日に上梓されている。

 作者95歳のエッセイ集で、先日読んだ『思考の整理学』を除くと、直近に読んだ本ということ。しかし、ブログに、どんな感想を書いたかも思い出せない。

 私にとって、書物や活字は、その時々の心のご馳走のようなもの、心に滋味を与えて喜ばしてくれるものである、と言えそうだ。

 

 ⑥の内容は、以下の章に分けて書かれている。(章の題名にも、作者の考え方の一端がほの見える。)

 1◇反常識の道をゆく 2◇ころがる石あたま 3◇知と独創のおもしろさ

 4◇遠くて近い思い出 5◇退屈は人生の大敵 6◇人間の不思議

 補遺「100年人生を生きるコツ」(談)

 この補遺には、例えば、

 「もうトシだから、そろそろ考えるぞ」・おもしろいことがあれば大丈夫・頭を使った生き方=“悪人”になって生きること・「常識的」は無害だから存在感もない・いくつになっても脱線のすすめ・不安は「力」なり  

 などなどの小見出しがついていて、決して常識的な論法ではなく、その語り口もおもしろい。

 老人だからと、周囲に遠慮して、縮こまってばかりでは、生きている楽しみもない。

 私は、外山滋比古さんほど 自信をもって自分の意思を貫く勇気はないけれど、志としては外山滋比古風でありたい。

 今日手にした本も、一応書棚に戻すけれど、息が詰まりそうな気分になったら、また外山滋比古さんの本を取り出して読み返そうと思う。


 今朝、庭歩きをしたとき、頭上に咲いていたノボタンと、その上の秋の空。

 

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『思考の整理学』

2020-09-27 | 身辺雑記

   外山滋比古 著

  『思考の整理学』

 

  

   カバー装画 安野光雅


 外山滋比古(1923・11・3〜2020・7・30)96歳没、胆管がん。

 外山滋比古の著作を読み始めた契機は思い出せない。新聞の書評あたりで、作者を知り、一冊また一冊と、折々に求めて読んできたように思う。私は著者の生年月日が気になる方である。私より幾歳年長者の文章であるか、幾歳若い人の文章であるかを気にしている。

 文は人なり、その人の時代的な背景と無縁の文章はない、とも思っている。語彙にも文体にも時代が反映されるように思う。外山滋比古さんは、1933年生まれの私より10歳年長者であることは、いつも意識していた。

 私の印象では、戦前に旧制の中学校あるいは女学校を卒業した人と、戦後に新制度の中学校を卒業した者(私は新制中学校の一期生)とでは、ひとりでに(あるいは教育の影響もあって)、語彙力にかなり大きな差があること感じてきた。私は両時代の過渡期にあるだけに、その差異を強く感じ、コンプレックスを感じてきた。それは漢語力、古典的な和語における知的、情緒的語彙の力の差であった。

 外山滋比古さんの場合は、10歳年長者の碩学であり、英文学者でいらっしゃるから、カタカナ表記の英語も多いのだが、親しみやすい端正な文体で、話すように聞かせるように書かれているので、実に読みやすい。が、年長者であるから語彙は当然豊かである。


 私が、過去に読んだ外山滋比古著7冊。(①〜⑦は、刊行順)

  ① 『日本語の個性』

  ② 『ユーモアのレッスン』

  ③ 『忘却の整理学』

  ④ 『20歳からの人生の考え方』

  ⑤  『人生複線の思想』

  ⑥  『大人の言葉づかい』

  ⑦ 『日本語は泣いている』


 外山滋比古さんの訃報は、

 外山滋比古さん死去

  英文学者「思考の整理学」  96歳

 の見出しで、伝えられた。(2020年8月7日の朝日新聞)

 (その前日、テレビのニュースでも訃報は報じられた。)

 記事には、

 [生き方、考え方のヒントといった幅広いテーマのエッセイも得意とし、83年刊行の「思考の整理学」は250万部を超えるロングセラーになった。]

 と記されている。その事実は知っていたが、大学生に大人気の名著『思考の整理学』を私は読んでいない。しかし、この記事を読んだ段階では、ぜひ読んでみようとは思わなかった。

 が、9月12日(土)の読書欄(朝日)の<売れてる本>として、『思考の整理学』紹介記事を読んで、外山滋比古著の最後の本として読んでみようと思うようになり、早速Amazonへ注文した。そして、翌日には入手。

 死去後の9月5日に、124刷目が増版され、私のところへ届いたのも、その一冊であった。初版は1986年だから、ずいぶん多くの人に読まれたことになる。(253万3400部とか)大学生でなくても、<思考>についての論は参考になったし、文章それ自体の外山滋比古流が読んでいて愉しかった。


 一つ、学んだこと。

 「三上」(良い考えの生まれやすい状況は、馬上、枕上、厠上である、と中国の欧陽脩が説いたという話)は、高校生のときに学習した。が、「三多」については、どこかで聞き知ってはいたが、「三上」以上に大切だと思い直した。

 「三多」とは、文章上達の秘訣三か条で、看多(多くの本を読むこと)、做多(さた・多く文を作ること)、商量多(多く工夫し、推敲すること)で文章上達の秘訣三カ条である。

 と、外山滋比古さんは書いておられる。確かに文章上達の要諦である。


 (少々疲れてきたので擱筆。) 

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コスモス寂しく

2020-09-26 | 身辺雑記

 今日も、津田医院へゆく。

 <24時間心電図>を取り外していただくために。

 予定時刻にはまだ間があったので、田圃に植えられたコスモスの花見をする。 

 例年と違って、緑色が目立つ。草丈が伸び、葉ばかり茂って。これも猛暑の影響なのであろうか。

 

 緑色に対して花色があまりに少ない。

 これが今年のコスモス畑の姿である。(下の写真)

 

 

 

 

 

 今日は機器の取り外しだけで、診察はなかった。

 結果が出るのは、来週の後半の由。来月の初めになるようだ。



 帰宅して、この秋、初めて見つけた鮮黄色の花。

 毎年、ほぼ同じ場所に咲く。

 

         ヤブツルアズキ 

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徐脈の件で病院へ

2020-09-25 | 身辺雑記

 昨夜、体調不良に伴う不安を感じた。

 コロナの感染者数が増え始めたころから、朝夕の検温と血圧の測定をして、自分自身の健康管理をしている。

 今週は体調が下降気味で、夜更かしの平気な私だが、ずいぶん早く就寝することが多かった。

 昨夜も、10時過ぎには寝支度に入った。

 マイスリーを飲んだ後、検温と血圧測定をしていないことに気づき、居間にもどって測定した。検温も血圧もいつもどおり正常だったが、脈拍数が50。

 50?と、頭を傾げた。計器の表示ミスではないかともう一度測った。と、さらに下がって、43。おまけに、<脈の乱れ>の表示が出た。

 自分の手で脈をとると、少々のゆるやかさではない。おまけに大変な乱れ、脈が暴れ回っている感じだ。これはいけない、と不安を覚えながら、ベッドに横たわった。折々、脈に手を添えてみる。が、なかなか徐脈が治らない。

 意識の確かなうちに、かかりつけ医の先生に相談しようか? 救急車を呼ぶべきか? あれこれ考え迷っているうちに、脈が増え始め、今度は頻脈になった。その方がマシに思え、救われた気持ちになった。

 そのうち、マイスリーが効いてきて、眠りに落ちた。11時過ぎであったろうか?


 今週は、草花舎へ出かけたり、お彼岸のお墓参りをしたり、海辺まで散歩に出かけたり、病院にも行ったり、いつもの週より活動的であったにもかかわらず、自分自身の心の中では、体調にどこか不安があり、奇妙な疲れは、老いによる衰えというものであろうか? と思ったりしていた。なかなか気分爽快とはいかず……。

 そうした挙句に起こった徐脈の不安であった。


 今朝、津田医院へ相談の電話をした。受付の方に、先生の意見を聞いていただくつもりであったが、先生自らが電話口に出てくださった。

 <24時間心電図をつけてみましょう>とのこと。

 10時のバスで病院へ行った。

 24時間心電図をつけるのは、三度目である。

 過去二回は異常なし! であった。が、今回は、どいう結果になるのだろう?


 看護師さんに、心電図の機器をつけていただき、その後、診察も受けた。


 バスの時間には間があり、帰途はタクシーを呼ぶ。

 タクシーを待ちつつ、眺めた植物。

 

 

 山茶花の実(初めて気づいた実)。


  薬局前の花壇に咲いている三種類のペンタス。

 (白い花を、自宅の花壇に植えたことがあり、その名を思い出す。)

 

 

 

 

 

 

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病院へ(定期)

2020-09-23 | 身辺雑記

 津田医院で定期検査を受ける。

 順番を待ちつつ、水槽の中を泳ぎ回る二匹の魚を眺める。

 もう幾年も、同じ水槽に棲んでいる。

 目立つ魚と地味な魚。

 活発に泳ぎ回る魚と、底の近くをおとなしく泳ぎ回る魚。

 異種であっても、同居が楽しいのだろうか。

 来る日も来る日も、水槽暮らしに飽きるということはないのだろうか?

 魚の年齢は、見た目にはわからない。雄か雌かも分からない。

 

 

 

 


 見飽きず眺めていると、診察の順番が回ってきた。

 問診と血圧測定。

 一月分の薬(血圧、コレステロール、眠剤)をもらって帰宅。

 

  ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆

 昨日は、咲き方のみすぼらしかった曼珠沙華だったが、一日を経て美しさを増した。

 これなら上々!


 


 コンクリートの穴の中から、フジバカマが伸びてきた。

 開花が楽しみ!

 

 

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今日、なし得たことは…

2020-09-22 | 身辺雑記

 掃除機に溜まったゴミを捨てようとして、四苦八苦!

 もう幾年も使用している掃除機で、ゴミ出しも幾度となく行っているのに、突如やり方が分からなくなった。ここを外すしかないと分かっているのに、その部品が微動もしない。

 自分でやってきたことだからできるはず、と何度も試みては失敗。

 仕方ない、近所の電気店(購入先)に電話して力を貸してもらおうと決断、しかし、今日は祝日と気づき、さらにもう一度、思いっきり力を入れて持ち上げたところ、あっけなく蓋が開き、部品を外すことができた。握力不足? とにかく、きれいに掃除して、使用可能な状態に戻すことができた。

 ずいぶん情けない思いをしたが、自力でできてほっとする。

 これが、今日の唯一の仕事であった。老いゆえの情けない時間の浪費である。

  

  

  ゴミを出した後の掃除機。


   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 

  今朝、庭に出てみると、ベージュ色のマンジュシャゲが、頼りなげにほぼ開花していた。

 赤色の花を咲かせるマンジュシャゲも、3本ばかり頭を出していた。家の庭でも、燃える赤い花が見られるようにと願っている。


 


 妹にもらった「フユシラズ」の苗は、半円形の花壇の、シモツケの木の下に移植した。うまく根付いて、花を次々つけている。

 

 


 シオンは、現在、花盛り。

 

 

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秋の花

2020-09-21 | 散歩道

 秋日和が続く。猛暑の息苦しさは鎮まって、野道を歩くのはとても楽しい。

 ただ、真夏があまりにも暑すぎたので、人ばかりでなく、草花にも、少々生気が欠けている。しかし、この時期でなければ出会えない花々に巡り合えた。

 今日も歩ける喜びに浸りながら、土田海岸へ下り、海抜40メートルの勾配をゆっくり上って帰宅した。(往復2、95キロ・4377歩 1時間の散歩)

 

  

  マンジュシャゲ(猛暑だった今年は、花の時期が遅れている。)

 

  

  クズの花(今、真っ盛りのクズの花。)

 

  

  雑然と咲いて道端のコスモス

 

  

  帰途(コスモスと私の帰り道)

 

  

  センニンソウ

 

  

  ツユクサ

 

  

  ヤマホタルブクロ(?)

  ツリガネニンジン

 [追記 9月27日

 Remさんから、正式な名前について、コメントいただきましたので、書き加えました。] 

 

  

   トベラの実(晩秋になると、ぎっしりと詰まった赤い実が弾ける。)

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9月の土田海岸

2020-09-21 | 散歩道

 一昨日、私の不注意で少し体調を崩した。

 それが影響したのか、昨日、お彼岸の墓参りを終えて帰宅した途端に、説明しがたい疲労感に襲われた。

 すぐベッドで休んでみたが眠れず、夜になっても、いつものような快眠が得られなかった。眠剤の量を増やしてなんとか眠ったが、深夜、珍しく幾度も目が覚めた。 

 こんなことは滅多にない。

 が、明け方になってその埋め合わせの睡眠が得られたようで、今朝は9時まで寝た。

 すっかり体調回復!

 午後には、散歩に出かける気分にさえなった。


 海に向かって歩いた。

 昔、散歩を日課にしていた方向に、ひとりでに足が向かった。

 ブログを投稿し始めた71歳のころ、そのカテゴリーの一つに「散歩道」を加えたことで、歩くことが日課となった。

 が、今日、その歩き慣れた道を辿りながら、散歩道で出会って親しくなった人たちが、いまは皆、亡き人であることに寂しさを覚えた。Mさん、Nさん、Uさん、Y子さんなど、みな故人である。

 私が勝手に花作り名人と呼んで、お庭の草花を楽しませていただいたSさんは健在である。が、老いて花作りはやめられた。今日も家前を通ったが、庭は荒れ気味であった。あんなに花作りの上手な方だったのに……。

  歳月は人を変え、風景をも変える。

 ふと置いてきぼりにあっているような寂しさを覚える。

 長く生きるということは、楽しみも多く得られるけれど、同量の寂寥も自ずから与えられるということらしい。


 しかし、ひととき安らいで、日本海や、半世紀前に一度だけ訪れた高島を眺めた。


 

 私が勝手に名づけた<トランペットの丘>から眺めた高島

 

 

 浅瀬で、簡易ボート(?)を漕ぐ少年。


 [追記 9月27日

 Remさんからのコメントで、写真のボートは、SUP(サップ=スタンドアップバドルボート)というのだと知りました。一つ、賢くなりました。

 

 

 波止場に遊ぶ若きカップル

 

 

 海岸から高島を眺める

 

 

 波静かな磯辺

 

 

 西方の波止場と岩 

 

 

 小岩と小さな白波

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