秋になり、美術やアートの展覧会も多く開催されるようになりますね。国内外の著名な作品を集めた企画展もいろいろ開催されることと思いますが、じっくり観るどころか、人の波に押されるようにして必死になって観る、なんていうことも少なくないと思います。
このブログでも、いくつかの企画展に行ったことを話題にしたりしていますが、場合によっては、それこそ必死に思いで疲れ果てながら(?)鑑賞した経験もあります。
人気の企画展の雑踏に疲れたから、というわけではないですが、いつの頃からか、僕は美術館や博物館の「常設展」に惹かれるようになってきました。いつ行っても、同じ絵画なり彫刻なりが置いてあって、それを鑑賞するということ。
東京であれば、上野はやはり珠玉の常設展示がある場所だと思います。
西洋美術館に行けば、最もル・コルビュジエらしさが残る空間とスロープに導かれながら、それこそ他人の気配をあまり気にする必要もなく、たっぷりと空間と展示物を独占できるのです。彫刻であればぐるぐると周りを回り、絵画であれば離れたり近寄ったりしながら、好きなだけ観ていられる。
国立博物館であれば、日本やアジアの古典を、ゆっくり観ることができます。しかも、企画展よりも格安の値段で。
もともと、常設展に展示されている作品は、芸術以前の土器など、古人の生活道具であったり、宗教芸術だったりすることが多いものです。それらは個人の作為などはるかに超えた「おおらかな」存在です。どうだすごいだろう参ったか、というようなところがなく、ただ必要に応じて粛々と生み出されたそれらの事物。それを現代では「芸術」と勝手によんでいるに過ぎないのだと思います。それらを、時間を隔てながら何回も対面すると、毎回異なった印象や発見があります。古典というのは、汲めども尽きぬ源泉なのですね。
変わらずに存在し続けてくれること。それが常設展のすばらしさです。変わるのは、自分の向き合う心だけ。成長したのか。捻じ曲がったのか。そんなことを問いかけながら。
上野の東京国立博物館の本館は、上野公園の噴水から望むと、正面に堂々と構えた佇まいです。帝冠様式と呼ばれたそのスタイルは、以降に続くモダニズムの精神からは、非難の対象となりました。でも、時が過ぎ去って今、その姿は、変わらないものを体現しているような雰囲気にも思えます。少なくとも学生の頃は、上記の知識の方が頭のなかに大きく居座って、そんな風に思わなかったけれど、いつの間にか、変わらずにあり続けてほしいと思う光景になりました。