設計を手がけているいくつかの住宅の現場が始まり、具体的に「材料」に向き合う機会が増えてきました。どれもがまだ工事の序盤。一軒の住宅の骨組みとなる材木の塊に触れていると、そのぬくもりのなかに、木が生きているように感じるときがあります。文化が異なれば、異なる材料に、同じような感覚をおぼえるかもしれません。
石が光をとらえているだろう?
そう語ったのは、いつかテレビ番組で観た、クロアチアに生きる老練の石工でした。何の種類の石だったかは今となっては判然としませんが、切り出された大きな石の塊を、マルテリーナとよばれる素朴な道具で、小気味よいテンポで削り始めたのでした。ごつごつとした表面が、微妙な皺のような表情を徐々に帯び始め、画面を通してみても、石が輝きだしたのがわかりました。磨きだすのではなく、ノミで削ったような荒い表面なのに、光の微妙なニュアンスをとらえて、くるくるといろいろな表情を見せます。これは機械では絶対に出せない味なのだそうです。
それは、老匠いわく「石に光をあたえる」こと。石という材料が日常の傍にあって、そこに光が共にあるということ。そんな感性が、うらやましいぐらいに素敵だと思います。
クロアチアには石工を養成する学校があって、学生たちが毎日コツコツと石に向き合って修練しています。石を彫るというのは、どんな感覚なの?そんな問いかけに、20歳に満たない学生がちょっと考えて答えたのは、「石が僕に平穏をあたえてくれる」という言葉でした。
石に光をあたえ、石から平穏をあたえられる。
リスボンの街を旅したとき、いろいろな石に出会いました。
砕かれた石が敷き詰められただけの、波打つような表情の歩道。あるいは、神に捧げられた至美なる彫刻で満たされた修道院。クロアチアのそれとはまた異なるのだろうけれど、ここにも光と平穏が溢れていたように思います。