山川暁夫氏著『80年代 その危機と展望 』(昭和54年刊 (株) 技術と人間)、を読了した。
氏は昭和2年に福岡県で生まれ、昭和29年に東大の経済学部を卒業した。職業は、政治・軍事・労働問題に関する評論家であると紹介されている。存命なら今年で88才だ。
同じ年代の政治家を調べてみたら、上田耕一郎、三塚博、森山眞弓氏がいた。作家で言うと、北杜夫、吉村昭、藤沢周平氏らがいる。何のため同時代の人物を調べるのか。
物好きからでなく、これほど頑な左翼が育つのは、時代の特徴かと思ったからだ。頑迷な左翼信奉者を、私はこれまで「反日・売国の徒」と呼んで来たが、その伝で行くと氏は一段上の「憎日・棄国の徒」だ。死ぬまでそうだったのか、途中で脱党したのか明らかでないが、長く共産党員であったのは間違いない。要するに、一筋縄でいかない左翼ジャーナリストだということだ。
読後の感想は、複雑だった。片鱗も受け入れ難い氏の意見だが、知らないことを沢山教え、正論もたまに述べている。有意義な書物だったと、それなりの評価をせざるを得ない。
これほどの知識と情報を持ちながら、どうして、国を捨てるような思想の呪縛から逃れられなかったのか、不思議でならない。
「国家が、非和解的な階級対立を土台として形成され、国家が、階級対立の権力的統合の機構、および理念体であるとするならば・・」。
「世界戦争を阻止するのは、国家群の力ではなく、世界の労働者階級と、民族解放勢力、世界の人民の、戦闘的連帯の強化によってのみ、果たし得るのである。」「戦争に対するのは、正義の立場を口にする国家の行動でなく、階級としての労働者の、解放闘争の強化と前進であり、プロレタリア国際主義の貫徹でなければならない。」
これが、著書の全編を貫く思想の根本、つまり妄想だ。
学生の頃だったら左翼用語に惑わされ、何となく黙り込んだのだろうが、国の成り立ちが、和解できない階級の対立を土台にしているなど、あまりに単純なレッテル貼りでないかと、今の自分は反発する。
貧乏人の息子だった自分は、彼の分類によると、「プロレタリア」、「人民」、「民衆」などの括りに入れられるのだろうが、不愉快この上ない。「プロレタリア」や「人民」「民衆」などという造語は、マルクスの本からの訳語にすぎない。わざわざ言い換えなくとも、「庶民」とか「民草」とか「貧乏人」とか、日本には昔からの言葉がある。
貧乏人と言われれば癪に触るが、それでも、人民とか民衆、プロレタリアなどと呼ばれるより、ずっとしっくりくる。
国を越えた、プロレタリアの国際的連携が、労働者を解放し、新しい社会を作ると彼は言うが、世界のどこにそんな社会主義国があるのだろう。民族主義を前面に出し、力ずくで国民を束ねる社会主義国のどこに、国際的連携を見ると言うのか。
中ソは戦火を交えようとしたし、中国はベトナムへ進攻した。社会主義国相互の中傷合戦や争いを見ていると、「一国平和主義」のスローガンと同様、「プロレタリアの国際的連携」が、現実には存在しない妄想だと分かる。
だが私は、彼の率直さを評価する。「マスコミ批判の原点」と題し、次のように述べている。
「逆説的な言い方ですが、私は、マスコミに真実を求めたくないのです。」「マスコミが、真実を報道してくれないので困るとか、真実を報道して欲しいとか、そんな立場から批判したくないのです。」
「新聞労連などが、一時 、[ 新聞・放送を国民のために ]というスローガンを、掲げていましたが、これは部分的に妥当するところがあるにしても、本来的にはないものねだりではないか、甘えていることになりはしないかと思います。」
「それよりも、マスコミがぶつけてくる、認識に対する緊張関係を、常に持ちつつ、マスコミ批判を展開しなければならないのでないか。マスコミに騙されるのか、騙されないのかという緊張感ですね。 」
「それを持ち続けることによって、民衆自身が、自己を確認するということ、それが、マスコミ批判の原点にならなくてはならない、と思うわけです。」
マスコミ ( 彼が指しているのは主として新聞 ) が、真実など伝えるはずが無いと、36年前に断言している。騙されないぞという緊張感を持って、常に対峙しなければならないのだと、ジャーナリストが語るのを初めて聞いた。
朝日新聞の大ウソに騙されたと、怒っている私だが、36年前にこの本を呼んでいたら、認識がが変わっていたのかもしれない。更に彼は言う。
「もともと政治は、支配と被支配のたたかいの総体だ、と定義づけられますが、その意味では誰しも政治の中に生きているわけで、政治から離れた事象は無い。そういう、支配と被支配のたたかいの総体のメカニズムとして、マスコミの報道がある。」
「もう少し図式化すると、政治と報道がかみあいながら、大衆に影響を与えるという一面がある。」「一方、大衆と政治が結びつきながら、報道に影響を与えるという一面がある。」「さらに今度は、大衆と報道が結びつきながら、政治に影響を与えるという面もある。この三つの相互関係の中で、報道が作られ、生きている。」
その絡み合いの実例を彼が詳述する。
「たとえば私が昔、国会で仕事をしていた時代、三木武吉などが、よく記者と碁をやって負けていた。あえて負けた形にしておいて、金を渡すわけです。」
「こういうことが、記者クラブ、あるいは自民党の控え室などで行われてた。運輸省のクラブの記者には、国電の無料パスが出るとか、建設省詰めの記者には、住宅公団に優先的に入れるといった利益供与がありました。」
「お中元、お歳暮、旅行の時の、同行記者に30万とか50万とかのお金。ダンヒルのライターなど、いろんな話がある。」
「すべての記者諸君が、それを受けているということではありませんが、やろうとすればやれる、という条件があるということは、見ておかねばならない。」「記者は、深く入らなければ取材できないし、深入りしすぎると、ミイラ取りがミイラになってしまう。」「とくに政治部の記者が、どう対応するのかは難しいところだと思います。」
永田町の論理とか、霞ヶ関の論理とか、世間の常識とかけ離れた話が、今でも、そういう表現で婉曲に表現される。
大きなことから、小さなものまで、様々な形の贈収賄が満ちあふれている政治とマスコミの世界だ。想像はしていたものの、実際に説明されると、やはり驚きだ。政治家も記者たちも、氏の書く事実を知っているし、経験者でもあるが、正直に語らない。
こんなことを暴露する人間は、その世界から放逐される。
だから私は、山川氏の本を評価した。素晴らしい人物とは思わないが、ここまで正直に徹した氏に、敬服もする。自分に真似のできないことをされると、そんな人物は無下に扱えなくなる。
と言って、氏を過大に評価しているわけでなく、自民党を嫌悪する気もない。
金に絡む汚い話は、共産党にもあり、社会党にも、公明党にもある。政界だけでなく人間の世界にはどこにでもある。70年も生きていれば、少年のような義憤に駆られず、事実を眺めることはできる。
こんな時にこそ、「理想は高く手は低く」だろう。