「五闋(けつ) 大兄靴 ( おほえのくつ ) 大化の改新」の漢詩に戻ってきました。渡部氏の言葉で言えば大化の改新はクーデーターで、中心となった人物は中臣鎌子と中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)です。
欽明天皇の御世に、百済から渡来した仏像を天皇が拝まれることに反対したのも、中臣鎌子でした。氏の説明によりますと同姓同名の別人なので、紛らわしさを避けるため「鎌足(かまたり)」の名前を使うとのことです。
仏教派の新貴族蘇我氏が専横を極め、皇位を左右しているのを許せないと考えているところは二人とも同じです。大化の改新がなされたのは西暦645年で、聖徳太子の死後23年が経っています。
「天才的な知謀家で慎重無比の鎌足は、機会を狙っていた。」「中臣家の家職ともいうべき、神祗伯(かむつかさのかみ)に就けようとする誘いも固辞し、むしろ逆に皇極天皇の弟で、仏教好きの軽皇子(かるのみこ)と親しくしていた。」
「しかし本当に擁立しようという意中の人は、舒明天皇の第二王子の中大兄皇子である。そしてこの皇子と接触する機会を待っていた。」
氏の解説に従い、経過を紹介します。
・たまたま中大兄皇子が宝興寺で蹴鞠をしていた時、靴が脱げ落ちた。
・鎌足はその靴を捧げ持って皇子に近づき、知り合うことができた。
・これがきっかけで、二人は国家の現状を語り合う関係になった。
・あまり親しくすると怪しまれる恐れがあるため、塾へ通い儒学を勉強することとした。
・通学の路上で国家の改革を語り合い、あらゆる点で共鳴しあった。
頼山陽の漢詩はこの様子を述べたものですが、背景を知りますと緊張した空気が伝わってきます。
〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉
大兄靴
靴脱し鞠落ちて 足蹉跎(さだ)たり
鞠の落ちたるは猶(なお)拾うべし
社稷(しゃしょく)の堕つるを如何にすべき
手に君の靴を捧げて君の足に納る
君の足は一踢(てき)して妖鹿を斃(たう)せ
臣の手は再び扶桑の木を植えん
私は今まで日本を大きく変えた三つの出来事の一つとして、大化の改新を考えてきました。
1. 大化の改新 2. 明治維新 3. 大東亜戦争の敗北
大化の改新により豪族を中心とした政治が、天皇中心の政治に変わり、「日本」という国号と「天皇」という称号が正式のものになったと教わりましたが、「宗教戦争」という視点で考えたことはありませんでした。
他の人は別の出来事を挙げるのかも知れませんが、私はこの三つのが大きく日本を変えたと今でも考えています。特に3番目の「大東亜戦争の敗北」は、日本人の心を萎縮させたまま、今もこの呪縛から国民が脱却できません。
しかしこれは現在のテーマでありませんから、次回は「大化の改新」の核心部分を紹介いたします。