ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

老境の飼い猫

2014-06-06 20:27:26 | 徒然の記

 息子が、職場の知人に頼まれ、猫を貰ってきたのは、14年前だった。

 生まれたばかりのメス猫は、体中を細かく振るわせ、不安そうに頼りない声で、泣いてばかりいた。片方の手のひらに乗るほどの小ささで、階段などは高すぎて上がれず、狭いわが家なのに、子猫にはとてつもなく宏大な場所になっていた。

 成長するにつれ活発になり、戸棚の上、タンスの上、本棚の上と、高い所ならどこへでも軽々と飛び上がり、そこから人間を見下ろすようになった。窓辺に飾り棚や台を置き、花や皿など、気に入りのアンティークを飾っていたが、そうした場所を、いつの間にか猫がすべて占領してしまった。

 頼まれて、仕方なく飼ってやっていると、その頃私は考えていたが、妻は最初から「猫可愛がり」で、何をするにも飼い猫が優先だった。私はもともと、犬や猫に靴を履かせたり、チョッキを着せたりする人々の愚かしさを、鼻先で笑う人間で、裸暮らしの生き物に余計なことをし、犬や猫こそ、迷惑しているはずと軽蔑していた。

 仕事一途だった当時の私は、冷淡ではないが、さほど猫に夢中にならず、日々を過ごしていた。「珍しい猫ですねえ。そんじょそこらには、いませんよ。」近所の犬好きの主人に言われ、改めて飼い猫の姿を見直した。

 普段は挨拶もしない近所の住人が、わざわざ声をかけてくるほどの猫だったか、と驚いた。家内に聞くと、雑種のメインクーンだという。長毛で大柄な猫は、フサフサとした尻尾を持ち、背筋を伸ばし、庭を睥睨する姿が堂々としていた。そう言われると、なるほど立派に見えてくるから、不思議だった。

 近所とのトラブルを避けるため、室内で飼うことに決め、庭に出す時は綱をつけ、遠くへ行けないようにしていた。それでも猫は、他所の猫が侵入してくると、綱を引きずったまま追いかける元気の良さで、油断していると、ガラス戸の隙間から逃げ出し、近所中を探しまわることが何度もあった。

 蝉が鳴くと、庭木の間にもぐって捕まえ、虫の嫌いな家内に、得意そうに見せにきた。トカゲやバッタもそうだった。動くものなら、何でも気になるらしく、素早い動作で捕獲してきた。飼い主に、獲物を見せずにおれないというのが習性なのか、夏になると、家内は悲鳴をあげる日が多くなったものだ。

 息子たちが家を離れ、夫婦二人の暮らしになると、飼い猫は単なる猫というより、いつしか、家族の一員としての位置を占めるようになった。今ではもう、家内より、私の方が猫を可愛がっている時がある。親ばかならぬ、飼い主バカと成り果てている不思議さだ。

 その猫が、ここ数ヶ月めっきりと衰え、棚に上がろうとして足を滑らせたり、飛び上がるタイミングを失って、断念したり、かっての活発さが影をひそめてしまった。食が細くなり、子猫だった昔に返ったような、弱々しい声で鳴くようにもなった。一番のショックは、失禁だった。決められたトイレを、キチンと使う行儀の良さだったのに、時おり自覚を失い、垂れ流している。

 「もうお婆ちゃんだから、仕方がないのよ。」と、妻は覚悟をしているが、元気で雄々しかった猫が、かくも無惨に老いていく姿が信じられない私だ。飼い猫の急変に、自分の気持ちがついて行けない。

 失禁用のシートや、流動食などを、家内と二人で買ってきた日から、私にも覚悟ができつつある。死というものに向かう準備とでも言うのか、喜びを共にした、家族の一員への感謝とでも言うのか。静かに看取ろうという強い思いがある一方で、近づいている最後の日を心に描くと、たまらないものがある。

 しかもこれは他人ごとでなく、自分たち夫婦の、近い将来の姿でもある。延命治療をせず、自然のままに逝きたいと願っている、私たち自身のお手本でもある。
冗談混じりに過ごしてきた、いい加減な日が沢山あるが、現在の私は、厳かな気持ちで、飼い猫の老いを見つめている。

 「割れ鍋にとじ蓋」、似た者夫婦なので、妻もおそらく、同じ思いなのだろうと推察する。

コメント (2)
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