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死は出発である

2017-05-04 23:46:06 | 日記
死後の世界の事はどうしても分からない。
死後、無になる。と断定する人もいるが、根拠はないし、死後の世界はあると謳う人も、見てきた訳ではないから根拠が無い。
臨死体験というのがある。
要は、死にかかって、あるいは息絶えて、垣間見た「死後の世界」だ。
言っていることはほとんど同じで、苦しんでいる自分の姿を、真上から見た。暗いトンネルに入り、抜けるとお花畑が広がっていて、死んだ、肉親が迎えに来てくれる。云々と。
皆が同じことを言うから死後の世界は信ぴょう性があるということにはならず、全ては、脳の働きで説明がつくとも言える。
つまり、本当に死んだ人から話を聞かないと、無理なのだが、そんな事は不可能だから死後の世界は、どうしても、空想の域を出ない。
しかし、何の因果か、この地球という星に偶然産まれ落ちた訳で、生を受ける以前の事がわからない以上、無から生が生じた。ということは、因果律からも考えにくく、生の前には、別の生があったように思う
すると、今の生の後にも、何らかの生が続いて欲しいと思う。
昔の人は、先祖の霊は近くの山に行く。そして、折々の時に還ってくる。と信じた。
彼岸の世界、精神的な世界を信じ、それとうまく共存して、昔の人の知恵はあった。
そういう、精神的な世界を失い、全ては、脳の働きで解明できるとする傲慢さこそ、目的のない生、ニヒリズムの世界を生んだ原因のように思う。
親鸞という宗教家がいた。
この宗教家は凄い。一回死んだくらいで、仏になれるなど傲慢だ。というのだ。
阿弥陀如来が、全ての人が救われない限り、私は、仏にならないと誓いを立てられた。
死んで、阿弥陀の眷族となったら、当然、他人を救う為、又、この世に生を受けなければならない。
仏の世界でのんびりしている訳にはいかないのだ。
そして、この世に還ってきて、他人を救い、またあの世に行き、また還り、その徃還は無限に続くだろう
そして、その往還を繰り返すうちに、徐々に、仏の智慧、慈悲も身に付いていくだろう。
果てしない生死の果てに、無限の浄土は待っている。とこの宗教家は教える。
「死」すらも、一種の修業と捉えるなら、当然、死は新たなる旅立ちである。
死は新たな世界への出発である。そう思いたい。