哲学〜〜そもそも、「哲学」という訳語が悪く、「希哲学」の「希」が抜けてしまった訳だけど、カントやヘーゲルの議論を論じても、それは「哲学学者」のする事で、「哲学する」事にはならない。
カントやヘーゲルの議論を学んで、自分の生き方、考え方が変わること〜それが「哲学する」ということ。
例えば、カントの哲学は、最高善の概念を持って、頂点となす。
カントの最高善には、個人の幸福の、神によって、来世で与えられる、個人的な最高善と、「神の国を地上に」という言葉で示される、社会的、共同体的最高善がある。
カント自身、「最高善の概念にマッチするのは、キリスト教の「神の国」の思想だけである」というごとく、カント思想は、キリスト教の概念に負っている。
しかし、神の国を地上に、と言っても、不可能だ。という声もあろう。
不可能である。しかし、それに向かって、不断に努力することは出来る。
「魂の不死」の要請は、その為にある。
神が、いずれ介入して、実現する。とも、考えられるが、キリスト教の神は、誠に心許ない。
聖書の「ヨハネ黙示録」で、イエスは「私は、すぐ来る」と言ったとされる。
つまり、当時の人々は、イエスはすぐ再臨して、ローマ帝国は滅びる。と考えていた。
しかし、イエスは全く来ない。なんで、来ないんだ。終末の遅延は、当時から問題になっていた。
であるから、カントも、神の介入を本気で信じていたか分からない。
すると、「神の存在」の要請より、「魂の不死」の要請が重要になる。
この世に、最高善の世界を実現すること、それは、我々の義務だ。とカントは言う。
不可能だ。と諦めてはいけない。
例え、肉体は滅んでも、「魂の不死」を信じて、永遠に、努力すること。それが、キーポイント。
「魂は不死である」こう信じることは、不合理にも思う。
しかし、為すべきことを成さねばならない時、どうしても、それを信じて、不可能だ。と諦めないで、努力する。そこに意味があるように思う。
これは、理屈ではない。世界平和への祈りがある。
青梗菜さんのところの私の考えの補足。
カントやヘーゲルの議論を学んで、自分の生き方、考え方が変わること〜それが「哲学する」ということ。
例えば、カントの哲学は、最高善の概念を持って、頂点となす。
カントの最高善には、個人の幸福の、神によって、来世で与えられる、個人的な最高善と、「神の国を地上に」という言葉で示される、社会的、共同体的最高善がある。
カント自身、「最高善の概念にマッチするのは、キリスト教の「神の国」の思想だけである」というごとく、カント思想は、キリスト教の概念に負っている。
しかし、神の国を地上に、と言っても、不可能だ。という声もあろう。
不可能である。しかし、それに向かって、不断に努力することは出来る。
「魂の不死」の要請は、その為にある。
神が、いずれ介入して、実現する。とも、考えられるが、キリスト教の神は、誠に心許ない。
聖書の「ヨハネ黙示録」で、イエスは「私は、すぐ来る」と言ったとされる。
つまり、当時の人々は、イエスはすぐ再臨して、ローマ帝国は滅びる。と考えていた。
しかし、イエスは全く来ない。なんで、来ないんだ。終末の遅延は、当時から問題になっていた。
であるから、カントも、神の介入を本気で信じていたか分からない。
すると、「神の存在」の要請より、「魂の不死」の要請が重要になる。
この世に、最高善の世界を実現すること、それは、我々の義務だ。とカントは言う。
不可能だ。と諦めてはいけない。
例え、肉体は滅んでも、「魂の不死」を信じて、永遠に、努力すること。それが、キーポイント。
「魂は不死である」こう信じることは、不合理にも思う。
しかし、為すべきことを成さねばならない時、どうしても、それを信じて、不可能だ。と諦めないで、努力する。そこに意味があるように思う。
これは、理屈ではない。世界平和への祈りがある。
青梗菜さんのところの私の考えの補足。