だらだら日記goo編

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そして、祈り

2013-12-31 21:17:29 | インポート
一足早く明治神宮に詣でてきた。
うちの父は奉納された絵馬を読むのが好きだった。
神社に行っては、絵馬を見つけて読む。
僕もちょっと今日絵馬を見てみたが、東大理一絶対合格、開成高校、何の某、なる絵馬を見つけておおっ、となったりした。
僕くらいの年齢になるともう自分の事はどうでも良い、という心境になる。
世界が平和で、幸せでありますように、綺麗事かもしれないが、祈るのは、そういうことだ。
自分の幸せはそのあとで良いし、幸せにならなくてもよい。父母の待っている所に行っても良いかな、とも思う。
哲学者カントに最高善の思想がある。
これは、僕の修士論文のテーマだったのだが、カントの最高善の思想は二義的なのだ。
一方で、カントは最高善の促進と実現は、義務、Pflicht,であると語り、一方で、カントは最高善は、来世、神によって与えられる、と違った事を語る。
これを原文でよく見ると、義務とされる最高善には、in der Weltとか、in einer Welt,つまり、世界における、とついている。
カントの場合、世界は、現象界か、叡智界だが、人の手の及ばない、叡智界で、義務という事はない。
従って、カントが想定している義務としての最高善とは、この世界で実現すべきものだと言うことになる。
では、この世界で実現すべき最高善とは、私の、最高善だろうか?
これもおかしい。
最高善とは、徳と徳に厳密に比例した幸福のことである。
そのような個人の最高善が、この世で実現できるわけはないし、そもそも、幸福を行為の動機とすることは、カント自信が固く禁じたことだ。
従って、この世界で実現すべき最高善とは、私の、ではなく、全ての人の幸福と考えないといけない。
既に、第一批判から、カントは、世界福祉、Weltbeste,という言葉を使っていた。それは、第二批判の目的の国の思想に直結するのも見易いところだ。
カントは、そのような、徳と幸福が比例した世界を思い描いていた。
そして、そのような世界の実現に努力すれば、自らの幸福は、来世、神によって与えられる、と考えていたと思う。
これが、最高善の第二の意味だ。
それは、信仰の問題であり、必境カントは、そういう信仰に生きたように思う。
第二批判で、いみじくもカントは、語った。
大いなる存在、それを通して我々は存在している、と。
これは、カントの信仰告白であり、しかし、考えると、人は自分の思いにならない世界を前に、人知を越えたものに、頭を下げ、祈ることしか出来ないように思う。
特に、311という不幸な出来事を通じて、自然は猛威をふるい、人など、ひとたまりもないもないことを思い知らされた。
ただ祈る、結局ここに行きつくように思う。
世の中安穏たれ、そう願いつつ、年を越す。