だらだら日記goo編

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人間であること、自己表現すること

2008-06-29 21:55:27 | アート・文化

たとえば冨塚純光という人を取り上げよう。

この人は猛烈な速さで描き、絵と文字は区別できず本人も読めないという。

「五木ひろしショー」という作品では「五木ひろし」と「東京の銀座」「雨上がり」の文字が判別できるくらいである!

しかしまともに絵の教育を受けていない、知的障害の人、精神障害の人も何かに取りつかれた様に描く、それは歌ったり踊ったりすることと同じく描くことが自己表現であり、彼らにとって描くこと自体に意味があるからであろう。

カタログによるとこういうアウトサイダーアートが認知されたのは1938、あの山下清を世に知らしめた「特異児童作品展」が日本での始まりという。

でそれから日にちは流れて滋賀県近江八幡市に「ボーダレス・アートミュージアム・NO-MA」というのが2004に開館したそうだ。

一方、ヨーロッパではジャン・デュビュッフェがローザンヌに寄贈したコレクションをもとにアール・ブリュット・コレクションが作られている。

今、松下電工汐留ミュージアムでは「アール・ブリュット、交差する魂」として日本と西洋のアウトサイダーアートを展示しているが、いやいや人間の自己表現の面白さとその多様さにうならされた。

例えば、日本の別の人は電車にしか興味がなく、「知ってる電車のすべてを一望したい」とぎゅうぎゅうづめに「圧縮電車」を並べて描くという作業をする。この人の地元の阪急電車だけで50種類近く!

また別の人は漢字にしか関心がなく、図鑑のひらがな文字をすべて漢字に変換するという作業をする、「やくしか」は「焼鹿」となったりする。

一方西洋のジャンヌ・トリピエというひとは58歳ごろから交霊術と占いに没頭し、みづからをジャンヌ・ダルクの霊媒であるとし、作品は霊のなせる技と主張する。

内容は解読が難しく、こういうものを芸術と主張できるかが問題だが、いわゆる現代アーティストの作る作品も何を訴えたいのか分からないことを鑑みると「芸術とは何か」とむしろ問いかけているようにさえ思える。

もちろん、漢字や電車や霊にはまる人ばかりではなく、生身の肉体に関心を持つ人たちもいる。

その場合当然として性的な表現が問題となるがここではふれない。

ともあれ、ごみくずともみなされかねないような「作品」が「芸術」を主張する場がここにはある。

障害者施設や精神病院といった「福祉」の場を離れてこういう作品が自立することができるか問われているように思う。