かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ 淳之介流 やわらかな約束

2007-07-15 02:19:34 | 本/小説:日本
 村松友視著 河出書房新社

 *

 作家でも芸能人でも死んでしまうといつの間にか忘れられてしまう人もいれば、いつまでも忘れられない人もいる。
 作家、吉行淳之介が死んで13年がたった。しかし、ここのところ雑誌で特集されたり、こうして評伝らしいものが出たりと、廃れぬ存在感、途切れぬ隠れた人気を見せている。
 村松友視は作家である。評論家やノンフィクション作家でない小説家(作家)が、他の作家について書くのは珍しい。もちろん、村松が編集者時代に吉行の担当者だったという前提があるのだが、今では押しも押されもせぬ直木賞作家である。
 その作家が、吉行淳之介について書いた。
 ここでは、村松は作家と言うよりすっかり担当編集者の目になっている。一線が引かれていて、その先には行こうとも行けない見えない線の先に存在する吉行を見ているといった感がある。だから、全体を通して意外なほど客観的で、意識的かどうか知れないが拍子抜けと思えるほど二人の個人的な触れあいの描写は少ない。

 吉行が既に作家としての位置を確保していた時に、村松は担当編集者になった。
 吉行が「驟雨」で芥川賞を受賞した時が昭和29年で、彼の作家としての地位を確立したとも言える昭和45年発刊「暗室」で谷崎潤一郎賞を受賞した時以後に村松は吉行の担当編集者になった。講談社や新潮社の担当者より相当遅れてきた担当者だと自分も述べている。
 この時村松30歳で、吉行の担当としては若すぎたのであろう。吉行を理解するには、相当の年期を必要としたのだと思う。いや、理解したとは村松も言っていないし、そう言いきるのは早計であろう。
 吉行は、この遅れてきた若い編集者の原稿依頼に対して、すぐにはうんと言わない(大体において大作家や流行作家はそうである)。これには、作家のその時点での原稿の進行状態や健康状態など、様々な理由がある。それで、担当編集者は、いつか書いていただければという「お願い」を常に持参して対応するという状態を保ち続けることになる。それでも、吉行は書かないと言っているのではない。何とか、折り合いはつけようと心の中では思っているのだ。
 村松は、健康にすぐれない吉行を見て、日にちと体力を要する原稿執筆が無理なら、その当時若手作家として人気が出てきていた野坂昭如との対談はどうだろうかと持ち出す。
 吉行は、「う~ん」と唸って、次に出てきた言葉が、「その話、やわらかい約束にしておこうか」である。
 つまり、「固い約束」ではない約束である。期限があるわけではないが、何とかしようという約束である。
 この約束は、された方は嬉しくもあるが、かといって飛んで帰って(上司に)報告するほどの形ある成果でもなく、宙に浮いた状態の中途半端な嬉しさである。
 実際このやわらかい約束は果たされるが、それは約2年以上たったあとのことである。
 しかし、「やわらかい約束」とは実にいい表現である。
 「今度」とか、「いつか」とか簡単に使う半ば慣習化された儀礼上の約束以上の優しいニュアンスが込められている。

 * *

 もう一つ、この本で村松の新しい視点(発見)と思ったのは、吉行淳之介と三島由紀夫の関係である。
 同年代の二人だが、三島は若くして「スター」(吉行表現)になった。吉行は、ある意味では紆余曲折の末、作家の地位を得る。しかも、吉行の場合は、娼婦から始まって、愛人と妻の間で戸惑う男の話など、自伝性の強い男と女のいわゆるインモラルの内容である。
 吉行は様々な人間と対談や座談を行っているように、考えが違うからといって毛嫌いするタイプではない。しかし、三島に対してはなぜか多くを語らず、近しく接することはなかった(ようだ)。例えば「ナマコ」を嫌いな人間がいるようにと、村松は述べている。
 吉行が意を決して書いたクラブの女性との恋愛関係の「暗室」が谷崎潤一郎賞を受賞した年に、三島は割腹自殺をする。
 その後、吉行は精力的に活動を始めると、村松はその偶然性への疑問を推測している。
 三島は、16歳の時に「花ざかりの森」を発表するなど、早熟な才能を遺憾なく発揮して、その後も小説、劇作家や映画の演出、楯の会を組織した政治的活動など、話題に事欠かない作家であり有名人であった。
 政治的発言を意図的に避けてきた吉行とその対極にあるとも思える三島が人間的に相容れないことは分かるが、きちんと彼らを対峙したことがなかったので、二人の関係と、吉行の三島に対する対応は新鮮な発見であった。
 吉行が、その後の文壇の中で、あるいはそれ以外での人間関係においても、いついかなる時でも、彼らしくさらりと通り過ぎてきたのは、三島の影が取り払われたからかも知れない。彼の中では、三島は最大の壁というか気になる(無視できない)棘のようなものだったのかも知れない。

 * * *

 吉行淳之介が死んでからしばらくたって、ある批評家が彼も文学史からいずれ消えるかもしれない、文学的には微妙な位置でしょうといった発言をした。僕は、この発言に少し驚き、そんなことはないだろうと、このことが気になっていた。
 数多くの本が出版され、数多くの作家が生まれる今日、書店の棚からかつての有名作家の本が次々と消え去っている。戦後長い間、青春小説で文庫の棚を独占していた石坂洋次郎はいつの間にか忘れ去られているし、三島由起夫や川端康成の本でさえ見つけるのが難しい。いや、置いていない書店がほとんどだ。いわんや、芥川賞や直木賞をとった作家とて、既に記憶からも書店からも消え去っている作家は多い。
 吉行に限らず、今日の作家の生命は加速度的に短くなっているのだろう。
 しかし、吉行が生き延びて、見直されているのは、彼の本が再評価されているのではない。彼の生き様であるスタイルだ。
 吉行は、多くの病気を抱え、本妻とは離婚できず(本妻が離婚を受託せず)にスターだった女性(宮城まり子)と同居し、夜の女と浮き名を流し、それらを不本意にも週刊誌にスキャンダルとして流される。
 しかし、彼は、言い訳をせず、修羅場を他人に見せず、辛さを覚らせず、(結果的に)さらりと通り過ごし、酒を飲み、ギャンブル(麻雀など)に耽り、その間にそれらの出来事を小説として練り上げてきた。
 女性にかける下ネタや猥談も、洒落た教養の一部に滲ませてあるかのように思わせる独特の雰囲気。風に吹かれる柳のような物腰。
 それら一様に、彼のスタイルが粋なのである。

 淳之介流には、業平、世之介と続く、時代を超えた「色男」の系譜を感じさせるのだ。

 * * * *

 村松は、吉行を八丁堀のダンナで自分を手下の目明かしと称している。
 吉行の死後十余年がたち、おそらく村松の心の中で吉行は徐々に大きな存在として膨れあがってきたのだろう。重くなって、それを払いのけるには書かずにはいられないと思って筆をとったに違いない。
 しかし、これで新しい吉行像が浮かび上がったかというとそうではない。多くは吉行の経歴・作品をなぞりながらの村松の思いをいくらか付加することに終始してしまったと思えるのだ。
 吉行の存在が大きすぎて村松がすべてを書くのを躊躇っているのか、はたまたそれほど吉行の人間性が複雑で捉えるのが難しいのか、吉行は未だふわふわと曖昧さを残したまま、私を書こうとしても無駄だよと笑っているように見えるのだ。

コメント
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