かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

銀座のクラブ

2007-07-11 03:40:59 | * 東京とその周辺の散策
 かつて文壇というものがあった頃、文壇バーなるものが存在した。バーと言ってもクラブで、主に銀座が舞台であった。
 「ラ・モール」「葡萄屋」「眉」「数寄屋橋」、そして、吉行淳之介が贔屓にした「エスポワール」、「ゴードン」などである。
 元もと文士の時代から銀座で遊ぶ作家はいたが、文壇バーなる言葉が流行ったのは粋人吉行の功績大であろう。
 安岡章太郎、三浦朱門、近藤啓太郎、遠藤周作などの「第三の新人」をはじめ、その後も野坂昭如、森村誠一、勝目梓、伊集院静なども加わり、文芸誌の担当編集者と作家の接待とも交流ともつかぬ宴が催された。その中に、当時まだ中央公論の編集者の村松友視もいた。

 文芸誌と関係ないわれら編集者は、銀座のクラブなど縁がなく、高いだけで鼻持ちならない銀座のクラブなど行くぐらいだったらと、やっかみ半分もあってそのスノッブ性に悪態をつきながら、もっぱら新宿の路地裏のバーやスナック、六本木のパブで飲んでいたものだ。
 一度、出版社のパーティの流れで、先にあげた文壇バーに先輩(会社の重役)に連れられて行ったことがあるが、同業者のお偉いさんばかりで酔えなかった記憶がある。
 
 久しぶりに、その銀座で飲んだ。それも、クラブで。
というのは、知人の息子が銀座でクラブをやっているという話を聞いて、それなら一度連れて行ってくれと言っていたのが、やっと実現したということである。
 別にクラブで飲むのが嗜好ではないが、先にあげたように銀座となれば別である。あの吉行さんが「腿(モモ)膝三年、尻八年」などと言って、通っていたところでもある。

 女性には分からないかも知れないが、男にとって銀座のクラブは特別な響きがある。
 男にとって見れば何でだろうと思う、女性がグッチやシャネルやエルメスのブランドを持つ心境に似ているかも知れない。
 新宿でも池袋でも佐賀にでもクラブはあるのだが、銀座はそこにあるだけでブランドなのだ。だから、料金も付加価値がついている。腐っても鯛、隅っこでも銀座である。

 そのクラブは新橋よりの銀座7丁目の雑居ビルの3階にあった。カウンターと、3人が座れるぐらいのテーブルが3つ置いてある、小さなクラブと言うよりバーであった。だから、十人も入ればいっぱいである。
 夜の9時開店と同時に私たちは扉を開いた。遅い開店である。だから、明け方4時まで開いているとのことだった。
 私たちが最初の客だった。カラオケも置いてあり、あとからきたサラリーマンの客が歌っていた。
 僕は会社勤めを辞めてフリーになってからはネクタイなど冠婚葬祭ぐらいで締めたことがないのであるが、この日は銀座に敬意を表してスーツでネクタイを締めた。たまのネクタイもいい。
 飲む酒も、最初の1杯だけビールで、あとはウイスキーである。ウイスキーも久しぶりである。かつてはウイスキーばかり飲んでいたのになあと、この味も懐かしくなった。
 店の女の子も、銀座だけあって洒落ている。
 銀座であることが、何もかもが潜在的に付加価値をつける。

 若い時は、銀座で飲むなんてと思っていたが、最近は、クラブは別としても素直に銀座はいいと思うようになってきた。歩いていても、新宿や渋谷よりも落ち着くのである。
 そんな年齢になったのであろうか。だとすると、少し寂しいが。

 なお、吉行さん亡き後、文壇も文壇バーも衰退していったが、かろうじて薄々と残ってはいるようだ。しかし、マダムはママさんになった。
 吉行作「暗室」のモデルと言われる「ゴードン」の大塚英子は、その後吉行との愛の生活を「「暗室」のなかで吉行淳之介と私が隠れた深い穴」ほか、何冊か書いている。
 野坂昭如は、当時の文壇および文壇バーのことを、「文壇」(文春)で瑞々しく描いている。
 村松友視は、最近、吉行のことを「淳之介流」と題して書いた。
 
 吉行淳之介が死んでもう13年にもなるが、吉行は何だか銀座で生きている、ように感じる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

□ 沖で待つ

2007-07-05 01:23:08 | 本/小説:日本
 絲山秋子 文藝春秋刊

 作家は二種類のタイプに分けられる。
 一つは、若い時から、つまり物心ついた頃から作家になると決めて、そのような勉強と努力をして、作家以外の道は目に入らないできた人だ。
 もう一つは、本は嫌いではなかったけど、とりあえず何らかの職業に就き、ある時期に思いたって書いてみた人だ。
 前者の方が最短コースを走るのだから早く作家になる確率は高いだろうし、この人たちは学生時代からせっせと小説を書き、そのまま就職せずに作家の道に入った人が多く、学生時代にデビューなんて人もこの部類に入るだろう。もちろん、いつまでも果たせないでいる人もいるだろう。
 しかし、人間的に面白いのは後者の人で、作家に行き着くまでの動機や道のりは様々だ。体験も前者のように一様でなく複雑なので、作品の幅や奥行きも広いように思う。
 個人的には、作家一辺倒で生きてきた人に面白みを感じない。
 自分の住まいから近くに別の部屋を借りて、そこへ毎日決まった時間に出勤(そこで物書きをする)する作家がいるようだが、勤め人のようでどこが面白いんだろうと思ってしまう。それに、社会(会社と言ってもいいが)を知らないで、作家だけの人生なんてのもつまらなさそうだ。
 
 絲山秋子は04年刊の「袋小路の男」を読んで、その恋愛描写が面白く、書ける女性だという印象を持った。その2年後、この「沖で待つ」で第134回芥川賞を受賞した。
 彼女は大学を卒業後、住宅設備機器メーカーINAXに就職して、十余年働いたあと作家活動に入った。女性の総合職が採用された時期である。
 この「沖で待つ」は、彼女の就職体験が描かれている。もちろん小説なので、正確に言えば就職体験が活かされていると言った方がいいかもしれないが、紛れもなく彼女の体験をバックボーンにした小説である。
 住宅設備機器メーカーの営業職として、福岡で社会人としてスタートした主人公(女性)と同僚の男性の交流を描いたものである。
 同期入社という関係以上にはならない、どちらかと言えばほのぼのとした恋愛抜きの関係である。それに、事件などの何かが起きる物語でもない。
 淡々と、福岡での仕事のことや会社員の日常が描かれているのみである。小説らしい仕掛けと言えば、主人公の同僚が死んで、その亡霊というか幻影を登場させていることぐらいであるが、それとてなくてもいいぐらいの重みである。
 つまり、なんて言うことない仕事の同僚とのやりとりであるが、それを面白く読ませるのは、作家の力量であり、実務体験に裏打ちされた実感を読むものに与えるからである。
 
 真の小説家とは、何でもないことを読ませることだと思っている。何かがあることを読ませるのは当たり前というか普通である。
 感動や涙を押し売りすることなく、派手な事件や事故を起こさなくても、(面白く)読ませる作家は、意外と少ないのである。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◇ 明日の記憶

2007-07-02 17:16:36 | 映画:日本映画
 堤幸彦監督 渡辺謙 樋口加南子 香川照之 大滝秀治 2006年

 人生とは何だろうと考えると、年をとるにしたがって、人生とは記憶であると思うようになってきた。
 愛にしても仕事にしても、かつて経験してきたことや体験したことは記憶にあるから人生といえるのであって、記憶からなくなってしまえば、それは人生と言えるのだろうか。そして記憶がなくなったとすると、その(記憶からなくなった)人生を、つまり流れていった年月とその堆積を、誰が証明してくれるというのだろうか。
 
 これは、記憶を失っていく病気になった男の話である。つまり、若年性アルツハイマーになった普通の男の物語である。
 普通の、と言うより少し仕事のできるサラリーマン(渡辺謙)が、物忘れが激しくなり、仕事も失敗が続く。否応なく妻(樋口可南子)に連れられていった病院での診断は、若年性アルツハイマー、つまり認知症である。まだ働き盛りの49歳の時である。
 健康で、それなりに仕事をこなし部長となり、幸せな家庭を作り、家を建て、娘が結婚した。それなりに、順調な人生である。
 結局、男は仕事を辞めることになる。その時、男は会社を去りながら呟く。
 「こんな形で終わるとは。しかし、何事もいつかは終わるのだ」
 取引先の課長(香川照之)が電話で言う。
 「あなたの後任の彼はまだダメだよ。早く職場に戻ってきてよ。そして、一緒にキャバクラ行こうよ」
 しかし、この話は実現することはない。
 ここまでは序章である。

 男は、仕事も辞めて家にいる日が続く。妻が働きに出る。
男は病気と言っても体は健康である。どうして、簡単なことをすぐに忘れるのか、何もできないのか、働きに出ている妻の帰りが遅い時は他に誰かと会っているのではないかと疑ったり、考えれば考えるほど頭が混乱する。解決策が見つかるはずもなく、男のジレンマは募る。
 ある日、男は妻が友人からもらっていた田舎の医療施設に一人でぶらりと出向く。その足で、かつて妻と習っていた陶芸の先生(大滝秀治)の古い家に辿り着く。そこで、先生と一緒に焼き物を焼き、そこでいつしか眠りにつく。
 朝起きると、先生はどこにもいないし、家は廃屋と化している。しかし、昨晩焼いた焼き物だけはある。まるで、上田秋成の「雨月物語」である。
 心配して迎えに来た妻が、そこで夫である男を見つける。その時、男は妻に「親切に」と挨拶する。既に、男は妻を認識できなくなっていたのだ。
 妻は涙が止まらない。男は、妻がなぜ泣いているのか分からない。
 第2幕章の終わりである。映画はここで終わる。

 ここから、実際は第3幕章が始まるはずだ。男にとっても妻にとっても、まだ長い残りの人生が。
 しかし、人生とは何なのであろう。
 そして、記憶とは何なのだろう。
 生きていくということは。
 終わり方は、どれも哀しみに彩られているのだろうか。

 僕は、古代ローマの皇帝マルクス・アウレリウスの言葉が忘れられない。
 「遠からず、君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうであろう」(「自省録」)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水郷の町、潮来、佐原

2007-07-01 17:16:21 | * 東京とその周辺の散策
 あやめ祭りも過ぎた季節、友人と水郷、潮来へ行った。
 水郷と言えば、九州では柳川だが、関東では潮来が有名である。
 潮来に着くと、絣着物を着た船頭のおばさんが、何人も「船に乗らんかね」声をかけた。あやめの季節が終わったせいか観光客はほとんどいないので、おばさんもお茶を引いて、暇を持て余している。
 ここへは、昔「潮来の伊太郎」を求めて来たことがあるが、当時は船乗り(川下り)以外何もなく、つまり見るべき街並みもなく、泊まるつもりだったのだが、ぶらぶらと近辺を歩いてその日のうちに帰ったのだった。
 今は、(いいかどうかは別にして)潮来の伊太郎の銅像があり、橋幸夫の歌までテープで流れるようになっている。しかし、この町を有名にしたのは、伊太郎の前の「潮来花嫁さん」だろうがと思ったが、その歌碑や花村菊江に関する記念碑などはない。
 
 潮来の前に流れる利根川(常陸利根川)を渡って、こちらの方が情緒が残っていると聞いた対岸の加藤洲十二橋の船乗りを楽しむことにした。こちらは静かなもので、客引きのおばさんもいない。それに、こちらは佐原(現香取市)なのだ。
 堀割への堤防(堰止め)のある川岸に小さな店(雑貨屋)があり、そこに船の案内があるので、窓口で「船に乗れますか」と訊くと、おばさんが出てきた。そして、「いいですよ。ちょっと3分ほど待ってください」と言って奥へ引っ込んだ。
 外で待っていると、絣着物の船頭服に着替えた先ほどのおばさんが、衣替えをして出てきた。「私のところは、個人でやっているので」と、値段も交渉次第のようでまけてくれた。
 利根川から入り込んだ堀割に船が入る。ここでは、「潮来花嫁さん」のカセット・メロディーが流れる。船は木で造った橋の下をゆっくり流れる。船頭のおばさんが、「私の若い頃は、本当に花嫁さんが船で下ったものだよ」と話す。途中、堀に沿ったところに出店があり、そこで団子を買って食べた。(写真)
 水郷と言っても、九州びいきでいうのではないが、やはり柳川にはかなわない。柳川は、堀割も深く街に入り込んでいて、慎み深くも歴史(立花藩の)と人々の生活がしっかりと生息している。
 水郷と言えば、柳川もそうであるが鰻が名産ということであろうか、道路沿いには鰻屋がやたら目につく。
 ということで、潮来で鰻重の昼食を食べて、鹿島神宮へ。
 
 鹿島神宮は古い神宮であるが、謂われに神武天皇と書いてあるのはちと過大表記であろう。この日はよく分からない団体のイベントが行われているようで何となく落ち着きがない。
 しめ縄で丸い輪を作り、そこをくぐり抜けると(縁起が)いい、六月(水無月)の大祓の設えがあったので、潜ってみた。
 そこへ、笙、ひちりきの調べに乗せて花嫁花婿がやってきた。結婚式もやっているのだ。

 せっかく鹿島神宮まで来たのだから、ついでと言っては失礼だが香取神宮へも足を伸ばした。この香取神宮も鹿島神宮に比肩する古い神宮である。
行ってみると、この香取神宮の神殿の方が漆黒と金の装飾で威厳がある。そして、ここでも例の六月の大祓の丸いしめ縄があった。スペイン語を話しているラテン系の若者が、香取神宮と毛筆で書いた掛け軸を買っていたのが面白い。

 香取神宮のあと、佐原の街へ行った。
 伊能忠敬橋の近辺は、古い街並みが残っている。う~ん、と唸ってしまった。保存に対する家々の努力の跡が窺われる。この界隈だけで言えば、つい先頃世界遺産に指定されたばかりの島根石見銀山の大田市街並みと遜色ない。
 千葉にこんな街並みがあろうとは、千葉も捨てたものではない(失礼)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする