絲山秋子 文藝春秋刊
作家は二種類のタイプに分けられる。
一つは、若い時から、つまり物心ついた頃から作家になると決めて、そのような勉強と努力をして、作家以外の道は目に入らないできた人だ。
もう一つは、本は嫌いではなかったけど、とりあえず何らかの職業に就き、ある時期に思いたって書いてみた人だ。
前者の方が最短コースを走るのだから早く作家になる確率は高いだろうし、この人たちは学生時代からせっせと小説を書き、そのまま就職せずに作家の道に入った人が多く、学生時代にデビューなんて人もこの部類に入るだろう。もちろん、いつまでも果たせないでいる人もいるだろう。
しかし、人間的に面白いのは後者の人で、作家に行き着くまでの動機や道のりは様々だ。体験も前者のように一様でなく複雑なので、作品の幅や奥行きも広いように思う。
個人的には、作家一辺倒で生きてきた人に面白みを感じない。
自分の住まいから近くに別の部屋を借りて、そこへ毎日決まった時間に出勤(そこで物書きをする)する作家がいるようだが、勤め人のようでどこが面白いんだろうと思ってしまう。それに、社会(会社と言ってもいいが)を知らないで、作家だけの人生なんてのもつまらなさそうだ。
絲山秋子は04年刊の「袋小路の男」を読んで、その恋愛描写が面白く、書ける女性だという印象を持った。その2年後、この「沖で待つ」で第134回芥川賞を受賞した。
彼女は大学を卒業後、住宅設備機器メーカーINAXに就職して、十余年働いたあと作家活動に入った。女性の総合職が採用された時期である。
この「沖で待つ」は、彼女の就職体験が描かれている。もちろん小説なので、正確に言えば就職体験が活かされていると言った方がいいかもしれないが、紛れもなく彼女の体験をバックボーンにした小説である。
住宅設備機器メーカーの営業職として、福岡で社会人としてスタートした主人公(女性)と同僚の男性の交流を描いたものである。
同期入社という関係以上にはならない、どちらかと言えばほのぼのとした恋愛抜きの関係である。それに、事件などの何かが起きる物語でもない。
淡々と、福岡での仕事のことや会社員の日常が描かれているのみである。小説らしい仕掛けと言えば、主人公の同僚が死んで、その亡霊というか幻影を登場させていることぐらいであるが、それとてなくてもいいぐらいの重みである。
つまり、なんて言うことない仕事の同僚とのやりとりであるが、それを面白く読ませるのは、作家の力量であり、実務体験に裏打ちされた実感を読むものに与えるからである。
真の小説家とは、何でもないことを読ませることだと思っている。何かがあることを読ませるのは当たり前というか普通である。
感動や涙を押し売りすることなく、派手な事件や事故を起こさなくても、(面白く)読ませる作家は、意外と少ないのである。
作家は二種類のタイプに分けられる。
一つは、若い時から、つまり物心ついた頃から作家になると決めて、そのような勉強と努力をして、作家以外の道は目に入らないできた人だ。
もう一つは、本は嫌いではなかったけど、とりあえず何らかの職業に就き、ある時期に思いたって書いてみた人だ。
前者の方が最短コースを走るのだから早く作家になる確率は高いだろうし、この人たちは学生時代からせっせと小説を書き、そのまま就職せずに作家の道に入った人が多く、学生時代にデビューなんて人もこの部類に入るだろう。もちろん、いつまでも果たせないでいる人もいるだろう。
しかし、人間的に面白いのは後者の人で、作家に行き着くまでの動機や道のりは様々だ。体験も前者のように一様でなく複雑なので、作品の幅や奥行きも広いように思う。
個人的には、作家一辺倒で生きてきた人に面白みを感じない。
自分の住まいから近くに別の部屋を借りて、そこへ毎日決まった時間に出勤(そこで物書きをする)する作家がいるようだが、勤め人のようでどこが面白いんだろうと思ってしまう。それに、社会(会社と言ってもいいが)を知らないで、作家だけの人生なんてのもつまらなさそうだ。
絲山秋子は04年刊の「袋小路の男」を読んで、その恋愛描写が面白く、書ける女性だという印象を持った。その2年後、この「沖で待つ」で第134回芥川賞を受賞した。
彼女は大学を卒業後、住宅設備機器メーカーINAXに就職して、十余年働いたあと作家活動に入った。女性の総合職が採用された時期である。
この「沖で待つ」は、彼女の就職体験が描かれている。もちろん小説なので、正確に言えば就職体験が活かされていると言った方がいいかもしれないが、紛れもなく彼女の体験をバックボーンにした小説である。
住宅設備機器メーカーの営業職として、福岡で社会人としてスタートした主人公(女性)と同僚の男性の交流を描いたものである。
同期入社という関係以上にはならない、どちらかと言えばほのぼのとした恋愛抜きの関係である。それに、事件などの何かが起きる物語でもない。
淡々と、福岡での仕事のことや会社員の日常が描かれているのみである。小説らしい仕掛けと言えば、主人公の同僚が死んで、その亡霊というか幻影を登場させていることぐらいであるが、それとてなくてもいいぐらいの重みである。
つまり、なんて言うことない仕事の同僚とのやりとりであるが、それを面白く読ませるのは、作家の力量であり、実務体験に裏打ちされた実感を読むものに与えるからである。
真の小説家とは、何でもないことを読ませることだと思っている。何かがあることを読ませるのは当たり前というか普通である。
感動や涙を押し売りすることなく、派手な事件や事故を起こさなくても、(面白く)読ませる作家は、意外と少ないのである。