かつて文壇というものがあった頃、文壇バーなるものが存在した。バーと言ってもクラブで、主に銀座が舞台であった。
「ラ・モール」「葡萄屋」「眉」「数寄屋橋」、そして、吉行淳之介が贔屓にした「エスポワール」、「ゴードン」などである。
元もと文士の時代から銀座で遊ぶ作家はいたが、文壇バーなる言葉が流行ったのは粋人吉行の功績大であろう。
安岡章太郎、三浦朱門、近藤啓太郎、遠藤周作などの「第三の新人」をはじめ、その後も野坂昭如、森村誠一、勝目梓、伊集院静なども加わり、文芸誌の担当編集者と作家の接待とも交流ともつかぬ宴が催された。その中に、当時まだ中央公論の編集者の村松友視もいた。
文芸誌と関係ないわれら編集者は、銀座のクラブなど縁がなく、高いだけで鼻持ちならない銀座のクラブなど行くぐらいだったらと、やっかみ半分もあってそのスノッブ性に悪態をつきながら、もっぱら新宿の路地裏のバーやスナック、六本木のパブで飲んでいたものだ。
一度、出版社のパーティの流れで、先にあげた文壇バーに先輩(会社の重役)に連れられて行ったことがあるが、同業者のお偉いさんばかりで酔えなかった記憶がある。
久しぶりに、その銀座で飲んだ。それも、クラブで。
というのは、知人の息子が銀座でクラブをやっているという話を聞いて、それなら一度連れて行ってくれと言っていたのが、やっと実現したということである。
別にクラブで飲むのが嗜好ではないが、先にあげたように銀座となれば別である。あの吉行さんが「腿(モモ)膝三年、尻八年」などと言って、通っていたところでもある。
女性には分からないかも知れないが、男にとって銀座のクラブは特別な響きがある。
男にとって見れば何でだろうと思う、女性がグッチやシャネルやエルメスのブランドを持つ心境に似ているかも知れない。
新宿でも池袋でも佐賀にでもクラブはあるのだが、銀座はそこにあるだけでブランドなのだ。だから、料金も付加価値がついている。腐っても鯛、隅っこでも銀座である。
そのクラブは新橋よりの銀座7丁目の雑居ビルの3階にあった。カウンターと、3人が座れるぐらいのテーブルが3つ置いてある、小さなクラブと言うよりバーであった。だから、十人も入ればいっぱいである。
夜の9時開店と同時に私たちは扉を開いた。遅い開店である。だから、明け方4時まで開いているとのことだった。
私たちが最初の客だった。カラオケも置いてあり、あとからきたサラリーマンの客が歌っていた。
僕は会社勤めを辞めてフリーになってからはネクタイなど冠婚葬祭ぐらいで締めたことがないのであるが、この日は銀座に敬意を表してスーツでネクタイを締めた。たまのネクタイもいい。
飲む酒も、最初の1杯だけビールで、あとはウイスキーである。ウイスキーも久しぶりである。かつてはウイスキーばかり飲んでいたのになあと、この味も懐かしくなった。
店の女の子も、銀座だけあって洒落ている。
銀座であることが、何もかもが潜在的に付加価値をつける。
若い時は、銀座で飲むなんてと思っていたが、最近は、クラブは別としても素直に銀座はいいと思うようになってきた。歩いていても、新宿や渋谷よりも落ち着くのである。
そんな年齢になったのであろうか。だとすると、少し寂しいが。
なお、吉行さん亡き後、文壇も文壇バーも衰退していったが、かろうじて薄々と残ってはいるようだ。しかし、マダムはママさんになった。
吉行作「暗室」のモデルと言われる「ゴードン」の大塚英子は、その後吉行との愛の生活を「「暗室」のなかで吉行淳之介と私が隠れた深い穴」ほか、何冊か書いている。
野坂昭如は、当時の文壇および文壇バーのことを、「文壇」(文春)で瑞々しく描いている。
村松友視は、最近、吉行のことを「淳之介流」と題して書いた。
吉行淳之介が死んでもう13年にもなるが、吉行は何だか銀座で生きている、ように感じる。
「ラ・モール」「葡萄屋」「眉」「数寄屋橋」、そして、吉行淳之介が贔屓にした「エスポワール」、「ゴードン」などである。
元もと文士の時代から銀座で遊ぶ作家はいたが、文壇バーなる言葉が流行ったのは粋人吉行の功績大であろう。
安岡章太郎、三浦朱門、近藤啓太郎、遠藤周作などの「第三の新人」をはじめ、その後も野坂昭如、森村誠一、勝目梓、伊集院静なども加わり、文芸誌の担当編集者と作家の接待とも交流ともつかぬ宴が催された。その中に、当時まだ中央公論の編集者の村松友視もいた。
文芸誌と関係ないわれら編集者は、銀座のクラブなど縁がなく、高いだけで鼻持ちならない銀座のクラブなど行くぐらいだったらと、やっかみ半分もあってそのスノッブ性に悪態をつきながら、もっぱら新宿の路地裏のバーやスナック、六本木のパブで飲んでいたものだ。
一度、出版社のパーティの流れで、先にあげた文壇バーに先輩(会社の重役)に連れられて行ったことがあるが、同業者のお偉いさんばかりで酔えなかった記憶がある。
久しぶりに、その銀座で飲んだ。それも、クラブで。
というのは、知人の息子が銀座でクラブをやっているという話を聞いて、それなら一度連れて行ってくれと言っていたのが、やっと実現したということである。
別にクラブで飲むのが嗜好ではないが、先にあげたように銀座となれば別である。あの吉行さんが「腿(モモ)膝三年、尻八年」などと言って、通っていたところでもある。
女性には分からないかも知れないが、男にとって銀座のクラブは特別な響きがある。
男にとって見れば何でだろうと思う、女性がグッチやシャネルやエルメスのブランドを持つ心境に似ているかも知れない。
新宿でも池袋でも佐賀にでもクラブはあるのだが、銀座はそこにあるだけでブランドなのだ。だから、料金も付加価値がついている。腐っても鯛、隅っこでも銀座である。
そのクラブは新橋よりの銀座7丁目の雑居ビルの3階にあった。カウンターと、3人が座れるぐらいのテーブルが3つ置いてある、小さなクラブと言うよりバーであった。だから、十人も入ればいっぱいである。
夜の9時開店と同時に私たちは扉を開いた。遅い開店である。だから、明け方4時まで開いているとのことだった。
私たちが最初の客だった。カラオケも置いてあり、あとからきたサラリーマンの客が歌っていた。
僕は会社勤めを辞めてフリーになってからはネクタイなど冠婚葬祭ぐらいで締めたことがないのであるが、この日は銀座に敬意を表してスーツでネクタイを締めた。たまのネクタイもいい。
飲む酒も、最初の1杯だけビールで、あとはウイスキーである。ウイスキーも久しぶりである。かつてはウイスキーばかり飲んでいたのになあと、この味も懐かしくなった。
店の女の子も、銀座だけあって洒落ている。
銀座であることが、何もかもが潜在的に付加価値をつける。
若い時は、銀座で飲むなんてと思っていたが、最近は、クラブは別としても素直に銀座はいいと思うようになってきた。歩いていても、新宿や渋谷よりも落ち着くのである。
そんな年齢になったのであろうか。だとすると、少し寂しいが。
なお、吉行さん亡き後、文壇も文壇バーも衰退していったが、かろうじて薄々と残ってはいるようだ。しかし、マダムはママさんになった。
吉行作「暗室」のモデルと言われる「ゴードン」の大塚英子は、その後吉行との愛の生活を「「暗室」のなかで吉行淳之介と私が隠れた深い穴」ほか、何冊か書いている。
野坂昭如は、当時の文壇および文壇バーのことを、「文壇」(文春)で瑞々しく描いている。
村松友視は、最近、吉行のことを「淳之介流」と題して書いた。
吉行淳之介が死んでもう13年にもなるが、吉行は何だか銀座で生きている、ように感じる。