かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

長崎街道の佐賀の田舎道を走る

2010-03-26 03:06:40 | 気まぐれな日々
 花冷えの季節、佐賀の田舎の道を歩く。歩くというより、自転車で走る。
 佐賀県の中央部に位置する大町町から北方町(現・武雄市)や白石町へ、そしてあるときは江北町に自転車で行く。佐賀・白石平野を有するこの一帯を、杵島(郡)と呼ぶ。
 ゆっくりと寂れゆく道に沿った町並みに、時の流れの哀れさを感じながら、時々自転車を止め、大きな古木や宿場跡地を見つめる。かつて賑やかに人が行き来し、栄えた時期もあったであろうと思いながら、この道を歩いた人を夢想する。地元の住人以外に、どんな髷を結った武士や着物を着た少し艶やかな女性が歩いたのだろうかと。
 道のべの家の庭先には、誰からも千切られることのない金柑が鈴なりに実をつけていて、木蓮が咲いている。道の横に広がる畑には、まだ短い青葉が行儀よく並んでいる。これから大きくなる麦である。

 江戸期、長崎街道と呼ばれた道がある。
 長崎から佐賀県内を通り、福岡の小倉までの25宿、57里、228キロの道である。
 徳川幕府による鎖国が徹底されたあとの日本は、長崎だけが海外に開かれた窓口だった。 長崎街道は、長崎のオランダ商館長の将軍への年始の江戸参府のルートとして発達した。そして、その後、多くの物資と情報がこの道を行き来した。
 肥前佐賀鍋島藩は、長崎沿岸の警備役を務めていたので、海外の情報はいち早くつかめる位置にいた。その役割を利して、鍋島藩は独自に海外の技術を調べ、幕末時には日本で最も高い西洋の科学技術を秘密裏に習得開発させていた。
 
 今年(2010年)2月、長崎ランタン祭りに行ったとき、長崎駅構内の観光案内所にて、「長崎さるく英雄編」のなかの「長崎を駆け抜けた肥前(佐賀)の偉人」なる、パンフレットを手にした。
 それに、幕末期に長崎に滞在した佐賀藩の士とゆかりの地を紹介している。明治期に総理大臣を務めた大隈重信、外務卿の副島種臣、日本赤十字社を設立した佐野常民、ドイツ医学を導入した相良知安などの佐賀藩士が並んだ長崎での写真は珍しい。
 また、大隈や佐野は長崎海軍伝習所を卒業している。さらに、大隈、副島は、長崎の五島町(出島に近い長崎港地区)に英学塾「致遠館」を創設している。これが、のちに大隈の早稲田大学設立の構想になったと思われる。
 長崎には、かの坂本龍馬も滞在している。ひょっとして、龍馬と肥前藩士との交流もあったかもしれない。

 龍馬も通ったと思われる長崎街道。
 その長崎街道は、今、別名「シュガーロード」とも呼ばれて見直されている。
 鎖国時代、長崎だけに入っていた南蛮貿易による品々。そのなかで、食文化に大きな影響を与えたのが砂糖である。砂糖は長崎街道を通して運ばれた。そこから、北九州に独特の甘味文化が生まれた。
 「カステラ」や「丸ボーロ」が生まれ、佐賀(特に小城)では「羊羹」が作られた。「寿賀鯛」とも呼ばれた鯛の形をした砂糖菓子の「金花糖」(きんかとう)、中国から渡来した中が空洞な唐菓子の「逸口香」(いっこっこう)、四角い乳白色の板のような水あめを固めた「あめがた」などは懐かしい味だ。
 さらに、のちに佐賀出身者により、森永キャラメルや江崎グリコが誕生した。

 砂糖が運ばれた長崎街道。
 今でもその道は佐賀県内を通っていて、幹線国道34号線と並行して走っていたり交わったりして、現役で活動している。
 長崎を出た長崎街道は1本だったわけではない。諫早で、西の方の大村に向かい佐賀の嬉野(うれしの)へ入る道と、東の有明海沿岸に向かい多良から浜(鹿島)へ続く道、多良道があった。
 さらに嬉野では、2本の道があった。嬉野から塩田を通り北方の追分に入る塩田道と、嬉野から塚崎(武雄)を通り北方へ入る塚崎道に分かれた。北方で塩田道と塚崎道は一体化し、西の大町を経て小田宿へ伸びた。
 北方宿から東へ伸びていく長崎街道は、江北町の小田宿で、南の有明海沿岸から伸びてきた多良道と再び1本に重なる。そして、佐賀、神崎、田代(鳥栖)、博多へと伸びていく。
 2つの道の分岐点の小田宿は、江北町である。
 江北町とは聞きなれない町名であろうが、JRの駅で言えば肥前山口である。ここから、博多・佐賀方面から来た電車も、長崎方面、佐世保方面行きに分かれる。
 鉄道の線路も、長崎街道と同じ道をたどったのである。

 冒頭に、自転車で道を走ると書いたが、その道が旧県道で長崎街道である。自転車に乗るといっても、サイクリングをしているのではない。隣町まで買い物に行っているのだ。こちら(佐賀)でも一人暮らしだから、致し方ない。
 自動車必備で依存社会になっている地方では、移動手段が歩くか自転車とは珍しいのだが、これも致し方ない。それに健康にもいいと言い聞かせての、自転車逍遥である。
 自転車で西へ向かい、大町の横辺田代官所跡を過ぎると江北町の小田に入る。
 ここ小田宿も、昔栄えたであろう面影はない。行基が作ったといわれた馬頭観音が有名だが、今は焼失して、その跡は侘しさだけが漂っている。この馬頭観音については、オランダ人のケンペルやシーボルトの「江戸参府紀行」に詳しく書かれているそうだ。
 現在の小田宿の街道周辺は、住宅に交じって店がぽつぽつとある程度だが、それでも何となく風情は残っている。
 
 このたび(3月)、小田の街並みに入ると、おやと思った。道の両脇に白い旗が垂れて、風になびいているのが目に入った。去年はなかった景色だ。
 赤い縁取りの白い布の旗は、家の玄関前に竹の竿に吊るされていたり、軒下に吊るされていたり、家によってまちまちだ。その白い旗には、「長崎街道 小田宿」と書かれている。(写真)
 PRが下手な佐賀としては珍しいことだ。しかも、無名に近い江北町の小田宿でとは。
 長崎での龍馬ブームに少しは影響を受けてのことだろうか。
 佐賀の田舎の侘しい街道沿いも、少しは華やかだ。どうせなら県内長崎街道14宿のすべてに飾ればいいのにと思った。
 そして、長崎に対抗して、「長崎街道を行く」という観光バスでも走らせたら面白い。バスの車体に龍馬の肖像画を描き、その上に「龍馬も走った」と書いて。
 しかし、佐賀県だとやはり無理か。
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