原作:室生犀星 脚本:渡辺あや 演出:黒崎博 出演:原田芳雄、尾野真千子 NHK広島放送局制作ドラマ 2009年文化庁芸術祭大賞作品
人生の盛りを過ぎたら、一人都会を離れ、田舎、それも島に引きこもって、執筆生活を営む。
それは、とても魅惑的なことのように思える。
のどかな自然と素朴な人たちとの触れあい。潮騒を聞き、流れる雲をながめながらの気の向くままの文章執筆生活。そこでは、都会の誘惑もない。
しかし、それは孤独と向きあった日々なのだ。かといって、作家にとっては、それは悪い材料ではない。
人気作家だった村田省三(原田芳雄)は、若いときは東京で遊び暮らしていたが、老いたあと、島に移り住んでいる。知りあいもいない島で、村田の慰めは、水槽に飼っている金魚ぐらいである。島では、村田は偏屈な先生だ。
この島に、新任の女性編集者、折見とち子(尾野真千子)が連載の原稿受け取りにやってくる。村田は、この無愛想な折見が気にくわなく、追い返す。
しかし、ふと通りすがりに見た海辺の砂浜に描いた龍の絵が、折見が船の待ち時間に描いたと知り、思い直して彼女に原稿を渡す。そして、かつて影絵をやっていたという彼女の話を聞いて、次回来るときに島の人たちに影絵を見せてやってくれと交換条件を出す。
次の来島のとき、折見は約束通りに島で影絵をやる。影絵をやることで、折見は島の人たちとも解けあっていく。
連載が終り、表紙の装幀は、村田は自分が可愛がっていた金魚の魚拓にすることを思いつく。村田は折見に、影絵のために魚拓を作った経験がある君が、その金魚の魚拓を作成してくれと言う。彼女は泣きながら、金魚を殺して魚拓を作る。
村田は折見に言う。
「人生なんてものは、(かつてちやほやされた)金魚だったものが、魚拓にされるまでのものよ」
自分の本の感想を言え、と村田に言われた折見は、作家として野心を失った村田を、正直に厳しく批判する。最近の作品は、読者におもねたものばかりだと。
それを最後に、折見は村田の前に姿を見せなくなった。
折見は病気が再発し、死の病に冒されていることを知った村田は、大きな花束を持って入院先の病院に出向く。
病に冒されている折見は、村田に言う。
「2年前、手術をして、自分がこの世で一番孤独だと思っていました。他人の不幸は蜜の味と申しますが、しかし先生は私以上に寂しい方であられました。先生の無惨な孤独ぶりが、私の慰めでした」
そして、代役で村田の担当編集者になったのではなく、自分から申し出たと告白した。
「誰よりも私の方が、先生のことを理解さしあげるという、妙な自信がありました」
死に向きあっている折見は、村田に言う。
「死を意識されたことはありますか? そのとき、人間ははてしなく孤独です。その孤独こそが、先生と私を強く繋げてくれると思っていました」
村田は頷く。2人の間に通いあうものがある。
「先生、私、いま持てている気持ちでごさいます」と言う折見に、村田は照れを隠しながら言うのだった。
「あながち気のせいでもないぞ」
病院をあとにし、島に戻る村田は船の中で呟くのだった。
「折見、おまえが持って生まれた、そしておまえなりに守り通すであろうその命の長さに、俺が何の文句をつけられよう。
心配するな。俺とて、後に続くのに、そんなに時間はかからないさ。
だが、それでももし叶うのであれば、今生、どこかでまた会おう」
村田と折見の2人は、決して馴れあうことをしない。その緊張感が、それでいて心地よく伝わってくる。恋とか愛とか言わないで、お互いがその孤独を分かりあう。
それは、限りある人生で滅多に出あうことのない、宝石のようなものである。これこそ、恋なのであろう。
偏屈な作家、村田の原田芳雄と、まっとうな姿勢を崩さない編集者、折見の尾野真千子が、格好の役柄である。
「火の魚」(中央公論社1960年)は、室生犀星原作である。内容は、装幀家である栃折久美子の金魚の魚拓をモチーフにして書かれた、自身の作「蜜のあはれ」(新潮社1959年)が元になっている。
ということは、物語に出てくる女性編集者の折見とち子は栃折久美子がモデルなのだ。栃折久美子自身も、装幀家になる前は、編集者(筑摩書房)であった。
栃折久美子も、金魚の魚拓および室生犀星のことを後に、「製本工房から」(冬樹社1978年)で書いている。
人生の盛りを過ぎたら、一人都会を離れ、田舎、それも島に引きこもって、執筆生活を営む。
それは、とても魅惑的なことのように思える。
のどかな自然と素朴な人たちとの触れあい。潮騒を聞き、流れる雲をながめながらの気の向くままの文章執筆生活。そこでは、都会の誘惑もない。
しかし、それは孤独と向きあった日々なのだ。かといって、作家にとっては、それは悪い材料ではない。
人気作家だった村田省三(原田芳雄)は、若いときは東京で遊び暮らしていたが、老いたあと、島に移り住んでいる。知りあいもいない島で、村田の慰めは、水槽に飼っている金魚ぐらいである。島では、村田は偏屈な先生だ。
この島に、新任の女性編集者、折見とち子(尾野真千子)が連載の原稿受け取りにやってくる。村田は、この無愛想な折見が気にくわなく、追い返す。
しかし、ふと通りすがりに見た海辺の砂浜に描いた龍の絵が、折見が船の待ち時間に描いたと知り、思い直して彼女に原稿を渡す。そして、かつて影絵をやっていたという彼女の話を聞いて、次回来るときに島の人たちに影絵を見せてやってくれと交換条件を出す。
次の来島のとき、折見は約束通りに島で影絵をやる。影絵をやることで、折見は島の人たちとも解けあっていく。
連載が終り、表紙の装幀は、村田は自分が可愛がっていた金魚の魚拓にすることを思いつく。村田は折見に、影絵のために魚拓を作った経験がある君が、その金魚の魚拓を作成してくれと言う。彼女は泣きながら、金魚を殺して魚拓を作る。
村田は折見に言う。
「人生なんてものは、(かつてちやほやされた)金魚だったものが、魚拓にされるまでのものよ」
自分の本の感想を言え、と村田に言われた折見は、作家として野心を失った村田を、正直に厳しく批判する。最近の作品は、読者におもねたものばかりだと。
それを最後に、折見は村田の前に姿を見せなくなった。
折見は病気が再発し、死の病に冒されていることを知った村田は、大きな花束を持って入院先の病院に出向く。
病に冒されている折見は、村田に言う。
「2年前、手術をして、自分がこの世で一番孤独だと思っていました。他人の不幸は蜜の味と申しますが、しかし先生は私以上に寂しい方であられました。先生の無惨な孤独ぶりが、私の慰めでした」
そして、代役で村田の担当編集者になったのではなく、自分から申し出たと告白した。
「誰よりも私の方が、先生のことを理解さしあげるという、妙な自信がありました」
死に向きあっている折見は、村田に言う。
「死を意識されたことはありますか? そのとき、人間ははてしなく孤独です。その孤独こそが、先生と私を強く繋げてくれると思っていました」
村田は頷く。2人の間に通いあうものがある。
「先生、私、いま持てている気持ちでごさいます」と言う折見に、村田は照れを隠しながら言うのだった。
「あながち気のせいでもないぞ」
病院をあとにし、島に戻る村田は船の中で呟くのだった。
「折見、おまえが持って生まれた、そしておまえなりに守り通すであろうその命の長さに、俺が何の文句をつけられよう。
心配するな。俺とて、後に続くのに、そんなに時間はかからないさ。
だが、それでももし叶うのであれば、今生、どこかでまた会おう」
村田と折見の2人は、決して馴れあうことをしない。その緊張感が、それでいて心地よく伝わってくる。恋とか愛とか言わないで、お互いがその孤独を分かりあう。
それは、限りある人生で滅多に出あうことのない、宝石のようなものである。これこそ、恋なのであろう。
偏屈な作家、村田の原田芳雄と、まっとうな姿勢を崩さない編集者、折見の尾野真千子が、格好の役柄である。
「火の魚」(中央公論社1960年)は、室生犀星原作である。内容は、装幀家である栃折久美子の金魚の魚拓をモチーフにして書かれた、自身の作「蜜のあはれ」(新潮社1959年)が元になっている。
ということは、物語に出てくる女性編集者の折見とち子は栃折久美子がモデルなのだ。栃折久美子自身も、装幀家になる前は、編集者(筑摩書房)であった。
栃折久美子も、金魚の魚拓および室生犀星のことを後に、「製本工房から」(冬樹社1978年)で書いている。
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