昨年(2016年)12月31日に亡くなった石坂敬一のお別れの会が2月8日、東京・青山葬儀所で行われた。
親族・親近者だけで営まれた1月9日の通夜、10日の告別式に続いて、お別れの会にも僕は出席した。
「石坂敬一さんお別れの会」の看板が立てられた外苑東通りに面した青山葬儀所の門を入ると、構内にはすでに多く参列者が並んでいた。
元東芝EMI時代にビートルズの担当ディレクターで、ユニバーサルミュージックおよびワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長兼CEDなどを歴任し、日本レコード協会会長を務めた経歴を見れば、芸能人を上回る参列者であっても不思議ではない。
受付けを終え過ぎたところで、カメラマンが連なって待ち構えていた。芸能人の葬儀がテレビなどで映し出される光景は、これなのかと思った。
式場の正面の祭壇には、丸いレコード盤の中に納まった石坂の遺影が花に囲まれ飾られていた。アナログレコードを愛した彼に似合っていると思った。
式場の横サイドには、献花者の名前を書いた札が数多く並べられている。音楽業界のトップを走っていたので、業界の会社や歌手・芸能人の名も数多い。
音楽評論家の湯川れい子、富澤一誠に続いて、歌手の長淵剛が弔辞を読みあげるとともに、自身の楽曲「12色のクレパス」を歌唱した。
式の最後に、各々お別れの白いカーネーションを1本ずつ献花して式場をあとにした。
僕はこのようなお別れの会に参列したのは初めてだが、のちのメディアの発表を見たら2300人の参列とあった。
*
1960年代の終わりから1970年代、音楽業界を象徴するレコード業界は活気に充ちていた。
戦前から日本の歌謡曲をリードしてきた日本コロムビア、日本ビクター、ポリドール、さらにキング、テイチクなどのレコード会社がしのぎを削っていた。
この時期、コロムビアは名実ともに業界の覇者といえた。戦前からの藤山一郎はじめ、美空ひばり、島倉千代子、小林旭(のちクラウンの創設時に移籍)、村田英雄、守屋浩、さらに青春歌謡の顔ともなった舟木一夫など 錚々たる歌手と専属作詞、作曲家をそろえていた。
ビクターは作曲家吉田正に象徴されるようにフランク永井、和田弘とマヒナスターズなどのムード歌謡や、橋幸夫をはじめとする青春歌謡の歌手、ヒット曲を輩出させていた。
そんななか、海外の大手レコード会社の一つイギリスのEMIグループと日本の東芝による東芝音楽工業が発足したのは1960年だった。さらに、1968年にはCBSソニーが参入した。
当時、日本のレコード業界も邦楽に頼るだけでなく、洋楽も大きな市場となっていた。
東芝音楽工業はレコード会社としては後発であったが、坂本九、植木等、加山雄三、黛ジュン、小川知子など邦楽でも好調なうえに、何といっても世界の音楽業界を席巻した洋楽のザ・ビートルズの存在が大きいと言っていい。ほかにピンク・フロイド、エルトン・ジョン、デビッド・ボウイなど大物ミュージシャンが揃っていて、勢いがあった。
その頃、日本の歌謡曲は全盛期を迎えていたし、アメリカ、イギリスのポップスやロックも波のように押し寄せていた。
*
1973年、東京・溜池にあった東芝音楽工業は東芝EMIと社名を変え、CBSソニーが僕が勤めていた出版社の近くの東京・市ヶ谷に移ってきた。
石坂敬一に会ったのは、その直後の頃だった。
その時の様子は、このブログの「石坂敬一の「出世の流儀」」(2011.12.9)で書いているので、一部抜粋したい。
石坂敬一に初めて会ったのは1974年の秋だった。
2人ともまだ20代で、若かった。
その頃、僕は初めてのパリへの旅から帰るとすぐに、その年の冬創刊されるメンズ・マガジンの編集者として、どのような雑誌にするか五里霧中のなかアンテナを張り、奔走していた。映画や音楽も僕の担当であった。
日本の歌謡界では、ソロ歌手となった沢田研二が時代の旗手として羽ばたこうとしていたし、それを追うかのように新御三家(西城秀樹、野口五郎、郷ひろみ)がヒット曲を競い、花の中三トリオ(山口百恵、桜田淳子、森昌子)が高一トリオと進級・成長を見せ、歌謡番組、テレビ各局による歌謡祭は賑やかだった。
映画「アメリカン・グラフィティ」が上映されていて、「カモメのジョナサン」がベストセラーとなっていた。ユリ・ゲラーが前年末もたらしたスプーン曲げのオカルト・ブームは続いており、宝塚による「ベルサイユのばら」の公演が始まったのもこの年だった。
そんなとき石坂敬一から電話があり、市ヶ谷にあった会社に彼が現れた。
会社のロビーで会った彼は、靴の先まで覆いかぶさるような裾の広いベルボトムのパンタロンに、高いヒールのロンドンブーツをはいていて、ロックシンガーのようであった。
髪は、僕もその当時そうであったが、少しウェーブをかけた風になびくような長髪であった。
「東芝EMIの石坂です」と、彼は静かに丁寧に名乗った。
そのとき彼は東芝EMIの洋楽のディレクターで、ビートルズやピンク・フロイドなど有名なアーティストを担当していて、すでに業界では名が知れていた。
僕がやろうとしている雑誌はまだ発刊されていなかったが、新しいアルバムをプロモーションとして持ってきたのだった。情報も早いし行動も早いと、僕は内心この男が石坂かと感じ入っていた。実際、まだ生まれてもいない雑誌の出版前にプロモーションに来るレコード会社の人間は少なかった。
石坂敬一は、僕に1枚のレコード・アルバムを差し出した。それは、ロッカーが狂気のような目で宙を見上げている、まるで宗教画のようなジャケット表紙のコック二ー・レベルのアルバムだった。
原題は「The Psychomodo」とあり、プレスリリースには「さかしま」とあった。
彼はアルバムを見ながら、「いいタイトルでしょう」と、少し嬉しさを抑えるような人懐こい声で言った。
僕は、内心小さな驚きを覚えた。
というのは、僕はその新雑誌を担当する前は書籍の編集部にいた。そのとき、早稲田大でフランス語を教えていた田辺貞之助先生のところに原稿を受け取りに行った際、先生の訳したユイスマンスの本を頂き、それによって「さかしま」という本を知ったばかりだったからだ。
彼はさりげなく「ユイスマンスだよね」と、ユイスマンスに由来したタイトルだよねといったニュアンスで言って、何だか愛おしそうにそのタイトルの入ったアルバムを見た。このロックシンガーとフランスの耽美派作家の結びつきに僕は驚いたのだ。
僕は、レコード会社の人間でユイスマンスの話をする人間に会うとは思わなかった。
彼と僕の話は、それで充分だった。
それ以来、同学年ということもあってか、僕たちは旧知の間柄のような、仕事とプライベートのミックスした友人関係となった。六本木のパブ・カーディナルなどでしばしば会って、ビールを飲みながら語った。ときには、ノブこと吉成伸幸も一緒の時もあった。
仕事の関係がなくなった後も、最近どうしている? と言って、時々酒を酌み交わした。
石坂敬一はエネルギッシュだったし、いつも業界の同世代というより同時代のといってもいいが、先頭を走っていた。しかし、会うときは、そんなところはおくびにも出さず、いつも穏やかでにこやかだった。“息を切らしながら一生懸命”というのとは無縁でやってのけるというのが、彼の彼らしい流儀だった。
つまり、汗をかいたのを見せることはなかったし、飲んでも酔いつぶれることもなかった。
彼は仕事でもプライベートでも次々にスケジュールを決め、手帳の日程を埋めていったが、やりたいこと、やらねばならないことで、「忙しい」を理由にそれらを躊躇、断念することはなかった。
「今度会おう」という誘いでも、彼はどこからか時間を捻出した。忙しい人間なのに、「忙しい」というセリフは吐かなかった。
時間は自分で作り出すものなのだ、という理念を実践しているかのようであった。
そして、人生を走り切ったかのように、石坂敬一は急にいなくなってしまった。
格好悪いところは見せたくない、とでもいうように。
親族・親近者だけで営まれた1月9日の通夜、10日の告別式に続いて、お別れの会にも僕は出席した。
「石坂敬一さんお別れの会」の看板が立てられた外苑東通りに面した青山葬儀所の門を入ると、構内にはすでに多く参列者が並んでいた。
元東芝EMI時代にビートルズの担当ディレクターで、ユニバーサルミュージックおよびワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長兼CEDなどを歴任し、日本レコード協会会長を務めた経歴を見れば、芸能人を上回る参列者であっても不思議ではない。
受付けを終え過ぎたところで、カメラマンが連なって待ち構えていた。芸能人の葬儀がテレビなどで映し出される光景は、これなのかと思った。
式場の正面の祭壇には、丸いレコード盤の中に納まった石坂の遺影が花に囲まれ飾られていた。アナログレコードを愛した彼に似合っていると思った。
式場の横サイドには、献花者の名前を書いた札が数多く並べられている。音楽業界のトップを走っていたので、業界の会社や歌手・芸能人の名も数多い。
音楽評論家の湯川れい子、富澤一誠に続いて、歌手の長淵剛が弔辞を読みあげるとともに、自身の楽曲「12色のクレパス」を歌唱した。
式の最後に、各々お別れの白いカーネーションを1本ずつ献花して式場をあとにした。
僕はこのようなお別れの会に参列したのは初めてだが、のちのメディアの発表を見たら2300人の参列とあった。
*
1960年代の終わりから1970年代、音楽業界を象徴するレコード業界は活気に充ちていた。
戦前から日本の歌謡曲をリードしてきた日本コロムビア、日本ビクター、ポリドール、さらにキング、テイチクなどのレコード会社がしのぎを削っていた。
この時期、コロムビアは名実ともに業界の覇者といえた。戦前からの藤山一郎はじめ、美空ひばり、島倉千代子、小林旭(のちクラウンの創設時に移籍)、村田英雄、守屋浩、さらに青春歌謡の顔ともなった舟木一夫など 錚々たる歌手と専属作詞、作曲家をそろえていた。
ビクターは作曲家吉田正に象徴されるようにフランク永井、和田弘とマヒナスターズなどのムード歌謡や、橋幸夫をはじめとする青春歌謡の歌手、ヒット曲を輩出させていた。
そんななか、海外の大手レコード会社の一つイギリスのEMIグループと日本の東芝による東芝音楽工業が発足したのは1960年だった。さらに、1968年にはCBSソニーが参入した。
当時、日本のレコード業界も邦楽に頼るだけでなく、洋楽も大きな市場となっていた。
東芝音楽工業はレコード会社としては後発であったが、坂本九、植木等、加山雄三、黛ジュン、小川知子など邦楽でも好調なうえに、何といっても世界の音楽業界を席巻した洋楽のザ・ビートルズの存在が大きいと言っていい。ほかにピンク・フロイド、エルトン・ジョン、デビッド・ボウイなど大物ミュージシャンが揃っていて、勢いがあった。
その頃、日本の歌謡曲は全盛期を迎えていたし、アメリカ、イギリスのポップスやロックも波のように押し寄せていた。
*
1973年、東京・溜池にあった東芝音楽工業は東芝EMIと社名を変え、CBSソニーが僕が勤めていた出版社の近くの東京・市ヶ谷に移ってきた。
石坂敬一に会ったのは、その直後の頃だった。
その時の様子は、このブログの「石坂敬一の「出世の流儀」」(2011.12.9)で書いているので、一部抜粋したい。
石坂敬一に初めて会ったのは1974年の秋だった。
2人ともまだ20代で、若かった。
その頃、僕は初めてのパリへの旅から帰るとすぐに、その年の冬創刊されるメンズ・マガジンの編集者として、どのような雑誌にするか五里霧中のなかアンテナを張り、奔走していた。映画や音楽も僕の担当であった。
日本の歌謡界では、ソロ歌手となった沢田研二が時代の旗手として羽ばたこうとしていたし、それを追うかのように新御三家(西城秀樹、野口五郎、郷ひろみ)がヒット曲を競い、花の中三トリオ(山口百恵、桜田淳子、森昌子)が高一トリオと進級・成長を見せ、歌謡番組、テレビ各局による歌謡祭は賑やかだった。
映画「アメリカン・グラフィティ」が上映されていて、「カモメのジョナサン」がベストセラーとなっていた。ユリ・ゲラーが前年末もたらしたスプーン曲げのオカルト・ブームは続いており、宝塚による「ベルサイユのばら」の公演が始まったのもこの年だった。
そんなとき石坂敬一から電話があり、市ヶ谷にあった会社に彼が現れた。
会社のロビーで会った彼は、靴の先まで覆いかぶさるような裾の広いベルボトムのパンタロンに、高いヒールのロンドンブーツをはいていて、ロックシンガーのようであった。
髪は、僕もその当時そうであったが、少しウェーブをかけた風になびくような長髪であった。
「東芝EMIの石坂です」と、彼は静かに丁寧に名乗った。
そのとき彼は東芝EMIの洋楽のディレクターで、ビートルズやピンク・フロイドなど有名なアーティストを担当していて、すでに業界では名が知れていた。
僕がやろうとしている雑誌はまだ発刊されていなかったが、新しいアルバムをプロモーションとして持ってきたのだった。情報も早いし行動も早いと、僕は内心この男が石坂かと感じ入っていた。実際、まだ生まれてもいない雑誌の出版前にプロモーションに来るレコード会社の人間は少なかった。
石坂敬一は、僕に1枚のレコード・アルバムを差し出した。それは、ロッカーが狂気のような目で宙を見上げている、まるで宗教画のようなジャケット表紙のコック二ー・レベルのアルバムだった。
原題は「The Psychomodo」とあり、プレスリリースには「さかしま」とあった。
彼はアルバムを見ながら、「いいタイトルでしょう」と、少し嬉しさを抑えるような人懐こい声で言った。
僕は、内心小さな驚きを覚えた。
というのは、僕はその新雑誌を担当する前は書籍の編集部にいた。そのとき、早稲田大でフランス語を教えていた田辺貞之助先生のところに原稿を受け取りに行った際、先生の訳したユイスマンスの本を頂き、それによって「さかしま」という本を知ったばかりだったからだ。
彼はさりげなく「ユイスマンスだよね」と、ユイスマンスに由来したタイトルだよねといったニュアンスで言って、何だか愛おしそうにそのタイトルの入ったアルバムを見た。このロックシンガーとフランスの耽美派作家の結びつきに僕は驚いたのだ。
僕は、レコード会社の人間でユイスマンスの話をする人間に会うとは思わなかった。
彼と僕の話は、それで充分だった。
それ以来、同学年ということもあってか、僕たちは旧知の間柄のような、仕事とプライベートのミックスした友人関係となった。六本木のパブ・カーディナルなどでしばしば会って、ビールを飲みながら語った。ときには、ノブこと吉成伸幸も一緒の時もあった。
仕事の関係がなくなった後も、最近どうしている? と言って、時々酒を酌み交わした。
石坂敬一はエネルギッシュだったし、いつも業界の同世代というより同時代のといってもいいが、先頭を走っていた。しかし、会うときは、そんなところはおくびにも出さず、いつも穏やかでにこやかだった。“息を切らしながら一生懸命”というのとは無縁でやってのけるというのが、彼の彼らしい流儀だった。
つまり、汗をかいたのを見せることはなかったし、飲んでも酔いつぶれることもなかった。
彼は仕事でもプライベートでも次々にスケジュールを決め、手帳の日程を埋めていったが、やりたいこと、やらねばならないことで、「忙しい」を理由にそれらを躊躇、断念することはなかった。
「今度会おう」という誘いでも、彼はどこからか時間を捻出した。忙しい人間なのに、「忙しい」というセリフは吐かなかった。
時間は自分で作り出すものなのだ、という理念を実践しているかのようであった。
そして、人生を走り切ったかのように、石坂敬一は急にいなくなってしまった。
格好悪いところは見せたくない、とでもいうように。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます