夏の盛り、花火の季節である。全国の各地で花火大会が行われている。
放浪の画家と言われた山下清は、この季節になると花火の名所を求めて旅したそうだ。作品に有名な「長岡の花火」がある。
日本で有名な花火大会というと、この長岡(新潟県)の他に、大曲(秋田県大仙市)や諏訪(長野県)あたりがあがる。いやいや、おらが町の花火が一番だと言う人もいるだろう。
しかし歴史でいえば、東京の隅田川の花火に勝るものはないのではないだろうか。
隅田川の花火大会は、資料をひも解くと江戸時代中期にまで遡る。8代将軍吉宗がその前年の大飢饉とコレラの死者を弔うため、1733(享保18)年7月9日の旧暦、水神祭を催し、それに伴い「両国の川開き」に花火を打ち上げたのが始まりとされる。
しかし、昭和に入り、第2時世界大戦の戦争で1度中断される。戦後復活したものの、今度は経済成長のあおりで隅田川の汚染が進み、1962(昭和37)年再び中断を余儀なくされる。そして、隅田川の水質が浄化した1978(昭和53)年に復活したという曲折がある。
*
今年(2012年)の隅田川の花火大会は、7月28日(土)に行われた。
祭り好きの僕は、5月20日の浅草三社祭に続き、この日浅草へ出向いた。
隅田川での花火の打ち上げは、午後(夜)の7時5分からである。
夕方の浅草行きの地下鉄銀座線が、普通はゆとりがあるのに、表参道駅からすでにいっぱいである。乗客に浴衣姿の若い女性の姿も結構目につく。目当ては今夜の花火なのだ。それに、スカイツリーの完成もあって、今年は余計に人気なのだろう。
浅草に着くと、浅草松屋前はすでに規制されて浅草(雷門)通りに入れない。隅田川に架かる吾妻橋に入る人たちが、歩行者専用道路となったあの広い通りいっぱいに溢れている。しかし、橋は塞がれていて、時間が来ないとまだ橋には入れないのだ。神谷バー前あたりは人で身動きとれない状態だ。
5月の三社祭のときよりも人が多い。金曜日の国会・官邸前の脱原発のデモ集会よりもはるかに多い。 人は、いろんな時にいろんな所に集まるものだ。集合する動物なのだ。
松屋前で、隅田川花火大会の案内図つきのパンフレットと団扇(うちわ)を配っていたのでもらった。
案内図によると隅田川の川場2カ所で、2万発の花火が打ち上げられる。
隅田川には、上流の明治通りに架かる白髭橋から、下流に行くにしたがい橋の名を記していくと、言問橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、そして浅草橋駅と両国駅の間にある靖国通りに架かる両国橋となる。その先は、いくつかの橋を経て東京湾に流れる。
この上流の白髭橋と言問橋の間が、花火が打ち上げられる第1会場となり、その下流の駒形橋と厩橋の間が第2会場となる。であるから、浅草松屋前の浅草通りから続く吾妻橋、およびその下にある駒形橋からは、第1、第2の左右の花火が見えるということになる。
この日は、先にあげた橋の間は6時からは交通規制区域となり、車は入れず歩行者専用となる。しかも、橋は交互に一方通行だ。
人込みに交じって、橋に入るのを待った。家族やカップルなど、笑顔が絶えない。外人も多い。整理のために装甲車の上に警察官がいるのは、国会・官邸前と同じだが、こちらは声も明るく、「今日の楽しい思い出のために列を守りましょう」などと叫んでいる。それにしても、耳障りになるくらいに口数が多い。
人込みは、いつの間にか道路の左右から紐を持った係員によって、グループに分けられていた。暗くなり始めた7時少し前から橋が開き、「第1グループ前へ」と先頭グループから、随時グループごとに前に進むという按配だった。
7時過ぎから、 まず第1会場の上流の方から花火が上がった。
やっと順番がきて、橋の上に来た。上流の言問橋(ことといばし)の方に花火が上がった。
あの在原業平も、ここいら辺で都の京都を思いながら、思えば遠くへ来たものだと詠ったのか。
「名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」
しかし今は、ひとときの情緒を味わっている余裕はない。
「橋の上では、立ち止まらず歩きながら花火は見てください」と、整理係の警官が言う。といっても、今どきデジカメや携帯カメラはみんな必携だ。ほとんどの人が、立ち止まってカメラを向けている。
「写真は1枚撮ったら、すぐに前に進みましょう。写真よりももっと大切な心に写しておきましょう」などと整理係の警官は、思わず笑ってしまう余計なおせっかいを言い出す始末だ。
ちょうど、30分遅れで下流の第2会場の方からも花火が上がった。吾妻橋からは、左に右にと花火が見える。しかも、南の駒形橋の方には月も浮かんでいる。月の横に花火が舞う。(写真)
立ち止まってゆったりしていると、後ろから来た紐を張った係員から押されるはめになり、しぶしぶ橋を渡り終えされた。
吾妻橋を渡ったところにも、多くの人がいた。それはそうだ、僕のように浅草から橋を渡ってきた大群と、もともとこちら墨田区側にいた人たちが交ったのだから。
ビルの間にイルミネーションに彩られたスカイツリーが大きく見える。人気のスカイツリーもこの夜は脇役だ。
吾妻橋は一方通行で戻れないので、街中の道に入って南に歩いた。道のあちこちにビニールシートを敷いて、座って飲み物を飲んだりしている人がいる。ここでもビルの谷間に花火が見える。地元の人たちだろうか、橋からの花火は以前さんざん見たし、列を作ってまで見るこたぁないというのかもしれない。こういう花火見物もあるのだ。
南の方に街角を歩いていくうちに、また人込みに出た。そこは、吾妻橋の一つ下流にある駒形橋のたもとだった。ここから、また反対方向に橋を渡る人込みだった。
この橋でも人数制限が行われていて、列に沿って駒形橋に入り、そこからも花火を見ることができた。駒形橋を渡って、再び浅草へ出た。
浅草駒形から、南の蔵前の先の浅草橋駅の方へ向かって、大きな江戸通りを歩いた。通りには、やはり人がいっぱいいた。ビルの谷間から花火が見える。まるで、ビルから火の粉が舞いあがって火事になっているようだ。
橋を渡らない人たちは、ビルの谷間からの花火を楽しんでいた。夜7時から始まった花火は、8時半に終わった。
隅田川の花火は、場所によっていろんな花火見物となっていた。
翌日の新聞によると、来場者数は95万人と発表されていた。佐賀県の人口よりも多い。
名物の隅田川の花火、今度はゆっくりと、願わくば風流に舟の上からでも見てみたいものです。
放浪の画家と言われた山下清は、この季節になると花火の名所を求めて旅したそうだ。作品に有名な「長岡の花火」がある。
日本で有名な花火大会というと、この長岡(新潟県)の他に、大曲(秋田県大仙市)や諏訪(長野県)あたりがあがる。いやいや、おらが町の花火が一番だと言う人もいるだろう。
しかし歴史でいえば、東京の隅田川の花火に勝るものはないのではないだろうか。
隅田川の花火大会は、資料をひも解くと江戸時代中期にまで遡る。8代将軍吉宗がその前年の大飢饉とコレラの死者を弔うため、1733(享保18)年7月9日の旧暦、水神祭を催し、それに伴い「両国の川開き」に花火を打ち上げたのが始まりとされる。
しかし、昭和に入り、第2時世界大戦の戦争で1度中断される。戦後復活したものの、今度は経済成長のあおりで隅田川の汚染が進み、1962(昭和37)年再び中断を余儀なくされる。そして、隅田川の水質が浄化した1978(昭和53)年に復活したという曲折がある。
*
今年(2012年)の隅田川の花火大会は、7月28日(土)に行われた。
祭り好きの僕は、5月20日の浅草三社祭に続き、この日浅草へ出向いた。
隅田川での花火の打ち上げは、午後(夜)の7時5分からである。
夕方の浅草行きの地下鉄銀座線が、普通はゆとりがあるのに、表参道駅からすでにいっぱいである。乗客に浴衣姿の若い女性の姿も結構目につく。目当ては今夜の花火なのだ。それに、スカイツリーの完成もあって、今年は余計に人気なのだろう。
浅草に着くと、浅草松屋前はすでに規制されて浅草(雷門)通りに入れない。隅田川に架かる吾妻橋に入る人たちが、歩行者専用道路となったあの広い通りいっぱいに溢れている。しかし、橋は塞がれていて、時間が来ないとまだ橋には入れないのだ。神谷バー前あたりは人で身動きとれない状態だ。
5月の三社祭のときよりも人が多い。金曜日の国会・官邸前の脱原発のデモ集会よりもはるかに多い。 人は、いろんな時にいろんな所に集まるものだ。集合する動物なのだ。
松屋前で、隅田川花火大会の案内図つきのパンフレットと団扇(うちわ)を配っていたのでもらった。
案内図によると隅田川の川場2カ所で、2万発の花火が打ち上げられる。
隅田川には、上流の明治通りに架かる白髭橋から、下流に行くにしたがい橋の名を記していくと、言問橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、そして浅草橋駅と両国駅の間にある靖国通りに架かる両国橋となる。その先は、いくつかの橋を経て東京湾に流れる。
この上流の白髭橋と言問橋の間が、花火が打ち上げられる第1会場となり、その下流の駒形橋と厩橋の間が第2会場となる。であるから、浅草松屋前の浅草通りから続く吾妻橋、およびその下にある駒形橋からは、第1、第2の左右の花火が見えるということになる。
この日は、先にあげた橋の間は6時からは交通規制区域となり、車は入れず歩行者専用となる。しかも、橋は交互に一方通行だ。
人込みに交じって、橋に入るのを待った。家族やカップルなど、笑顔が絶えない。外人も多い。整理のために装甲車の上に警察官がいるのは、国会・官邸前と同じだが、こちらは声も明るく、「今日の楽しい思い出のために列を守りましょう」などと叫んでいる。それにしても、耳障りになるくらいに口数が多い。
人込みは、いつの間にか道路の左右から紐を持った係員によって、グループに分けられていた。暗くなり始めた7時少し前から橋が開き、「第1グループ前へ」と先頭グループから、随時グループごとに前に進むという按配だった。
7時過ぎから、 まず第1会場の上流の方から花火が上がった。
やっと順番がきて、橋の上に来た。上流の言問橋(ことといばし)の方に花火が上がった。
あの在原業平も、ここいら辺で都の京都を思いながら、思えば遠くへ来たものだと詠ったのか。
「名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」
しかし今は、ひとときの情緒を味わっている余裕はない。
「橋の上では、立ち止まらず歩きながら花火は見てください」と、整理係の警官が言う。といっても、今どきデジカメや携帯カメラはみんな必携だ。ほとんどの人が、立ち止まってカメラを向けている。
「写真は1枚撮ったら、すぐに前に進みましょう。写真よりももっと大切な心に写しておきましょう」などと整理係の警官は、思わず笑ってしまう余計なおせっかいを言い出す始末だ。
ちょうど、30分遅れで下流の第2会場の方からも花火が上がった。吾妻橋からは、左に右にと花火が見える。しかも、南の駒形橋の方には月も浮かんでいる。月の横に花火が舞う。(写真)
立ち止まってゆったりしていると、後ろから来た紐を張った係員から押されるはめになり、しぶしぶ橋を渡り終えされた。
吾妻橋を渡ったところにも、多くの人がいた。それはそうだ、僕のように浅草から橋を渡ってきた大群と、もともとこちら墨田区側にいた人たちが交ったのだから。
ビルの間にイルミネーションに彩られたスカイツリーが大きく見える。人気のスカイツリーもこの夜は脇役だ。
吾妻橋は一方通行で戻れないので、街中の道に入って南に歩いた。道のあちこちにビニールシートを敷いて、座って飲み物を飲んだりしている人がいる。ここでもビルの谷間に花火が見える。地元の人たちだろうか、橋からの花火は以前さんざん見たし、列を作ってまで見るこたぁないというのかもしれない。こういう花火見物もあるのだ。
南の方に街角を歩いていくうちに、また人込みに出た。そこは、吾妻橋の一つ下流にある駒形橋のたもとだった。ここから、また反対方向に橋を渡る人込みだった。
この橋でも人数制限が行われていて、列に沿って駒形橋に入り、そこからも花火を見ることができた。駒形橋を渡って、再び浅草へ出た。
浅草駒形から、南の蔵前の先の浅草橋駅の方へ向かって、大きな江戸通りを歩いた。通りには、やはり人がいっぱいいた。ビルの谷間から花火が見える。まるで、ビルから火の粉が舞いあがって火事になっているようだ。
橋を渡らない人たちは、ビルの谷間からの花火を楽しんでいた。夜7時から始まった花火は、8時半に終わった。
隅田川の花火は、場所によっていろんな花火見物となっていた。
翌日の新聞によると、来場者数は95万人と発表されていた。佐賀県の人口よりも多い。
名物の隅田川の花火、今度はゆっくりと、願わくば風流に舟の上からでも見てみたいものです。
ヘリコプターの警備隊を除けば、一般人が花火を上から見ることができるのは、全国的にも、スカイツリーから見る隅田川の花火しかないかも。
この夜、スカイツリーに上った人は、高い抽選で当選した人だとか。
花火を、上からも見下ろしてみたいものです。
来年、申し込んでみようかな!