今年(2013年)も、佐賀で一人で迎える正月である。
九州といっても、佐賀を含めて北九州は寒い。
早朝まだ薄暗いとき目が覚めて窓の外の庭を覗いたら、松の枝葉の上に白い綿のようなものがのっていた。雪が降ったようだ。おそらく初雪だ。
銀世界の元旦も風情があると思ったが、再び起きて外を見てみると、空は灰色だったが雪が降ったのは夢だったかのように、雪の名残りもない元の景色がそこにあった。そのうち昼頃になると、青空が広がった。
いい天気になったし、近くの八幡神社に初詣に行こうと玄関を出たら、今度は雨が降り出した。傘を持って出かけたが、雨は通り雨のようにすぐにやんだ。
移り気な元旦の天気である。1日に、あらゆる天候を披露してくれた。
正月は日本酒がよく似合う。しかも徳利熱燗がいい。
だから、普段は日本酒を飲むことはあまりないのだが、年に一度日本酒を瓶(1升)で買う。正月に飲むためにだ。
例年、「窓の梅」(久保田町)にするのだが、今年は年末に塩田町(現嬉野市)に行ったので、そこで塩田の地酒の「東一」(あずまいち)を買った。
塩田町は平安の歌人、和泉式部の故郷だという伝説がある。にわかには信じがたい話だが、塩田町五町田には和泉式部公園があり、和泉式部の銅像すら建っている。
時は平安の時代、この地の美しくて賢い女の子の噂が京の都まで伝わり、請われて京に行き、その礼として田圃を与えられたのがこの地名の五町田の謂れだというのである。
その塩田町五町田の酒が「東一」である。
酒を買ったら、屠蘇が付いていた。
年の初め、元旦の酒は屠蘇酒である。
*
両親が生きていたときは、正月一日は、家族で屠蘇酒を飲んだ。父から始まり、母、そして息子である僕と弟と、順に屠蘇酒を朱塗りの杯(盃)に注(つ)いで、飲んでいった。ぜんぜん酒が飲めない父もこの日は、形ばかり屠蘇酒を口にした。といってもせいぜい杯1杯だが。
それから、お節料理をつまみながら、父以外の者は、この日ばかりは朝から、といっても昼に近い朝からであるが、杯を差(注)しつ差されつ酒を飲むのであった。
ある年のことだった。父が屠蘇酒を1杯飲んだあと、「よーし、飲んでやる」と言った。杯1杯で幾分赤くなる父を知っているので、みんなは驚いた。
「みんなが注(つ)いだのを、飲んでやる」と父は言った。
珍しいというより初めてのことだったので、面白がってみんな父の杯に酒を注いだ。 父は、3人が注ぐ酒を、順に一息に飲んだ。といっても、最初の屠蘇酒を加えて杯4杯なのだが、それでもみんな驚いた。
「親父も、まあまあ飲めるんだ!」、「意外と、飲もうと思ったら飲めるかも?」と言いあいながら、こちらが飲んでいるうちに、父は真赤になって横になってしまった。その日は半日死んだように寝ていた。
それから、父は飲むなどと口にしないし、みんなも飲ませようとはしない。
あの日はなんだったのだろう、と思うときがある。
*
屠蘇酒は、中国から伝来したものである。
「正月に屠蘇酒で祝う習慣は、平安時代に中国から伝えられ、宮中で用いられたのが始まり」と屠蘇の包み袋に由来が書いてあった。
屠蘇酒のことで、先日そうだったのかと思う文を見つけた。
日中の比較文化を研究している法政大講師である中国人の彭丹(ほうたん)さんの著書「中国と茶碗と日本と」(小学館)のなかの序文である。
著者は、日本に来た最初の正月に初めて屠蘇酒を飲んだと、その驚きを書いている。そして、中国でなくなったものが日本では残っている文化を見つけて感動もしている。
元旦に屠蘇酒を昔中国で飲んでいたということは、著者は知識で知っていた。しかし、現在の中国では、どこでも誰でも飲んでいなくて、それは歴史の資料としてあるだけだという。
日本人の僕は、屠蘇の由来を知らなかったが、著者は本書のなかで紹介している。
屠蘇酒を飲むのは、古代中国の習俗だった。屠蘇とは、大黄(だいおう)、白朮(びゃくじつ)、山椒、浜防風、附子(ぶし)、桔梗、桂心の7種の薬草を調合した薬の名である。元日の朝、屠蘇を浸けた酒を飲むと1年の邪気を祓うことができると信じられ、唐、宋時代に盛んに行われた。
それが、遣唐使によって日本に伝えられたのだろう。長安から京の都へ。京の宮廷から庶民へ。京都からいつしか全国へと広がったのだ。
また本書で、宋の詩人蘇軾(そしょく、蘇東披そとうば)の次のような、中国では有名な句が紹介されている。
「但(ただ)窮愁をして長健に博すれば、屠蘇を飲むこと最後を辞さず」
蘇軾の人生は波瀾に満ちていたが、どんな憂いがあろうとも、いかに貧乏であろうとも、健康であれば、私は元日の屠蘇を最後の飲むのを辞さないよ、と詩人は詠っている。
ここで僕がもう一つ発見したのは、屠蘇は年少者から年長者へと順に飲むのが慣わしということだった。
新しい年に若い人は1歳成長するので祝福の酒だが、老人になると1歳年をとるので懲戒の酒となる、とある。
わが家は、屠蘇酒は年長者の父から年少者の順に飲んでいたので、誤っていたということになる。
まあ、今年は(今年もだが)一人で飲むから、順番は関係ない。
しかし、年をとると懲戒の思いを抱いて飲まないといけないようだ。思い勝手に生きてきた人生を、反省しながら飲まないといけないのかな。
*
今年のお節料理は、以下のようなものである。
それらしいものは、黒豆と昆布巻きぐらいである。定番の田作り(ゴマメの甘露煮)の適当なのがなかったので、同じ小魚というので干乾し鰯焼きと昆布ちりめんで代替とした。
刺身はハマチ。
それに、九州ではスーパーに鯨が出ることは珍しくないが、こちらでも珍しい「生ウネ刺身鯨」というのがあったので買った。ウネとは鯨のどこの部分か店の人に訊いてみたら、背中あたりじゃないかなあと曖昧な返事だ。
ベーコンのような白から桜色に続く脂身で、食べると柔らかい。ウネを辞書で調べてみると、鬚鯨(ひげくじら)類の下顎の下面から胸にかけてある数十条のヒダとあった。
野菜煮は、カボチャとインゲン豆を煮た。ゴボウや人参、レンコンなどが入った煮染めとは違うが。
これに、蒲鉾と竹輪を加えれば、何とかお節料理らしくなるだろう。定番の数の子は、子宝を願う年でもないので省かせてもらった。
雑煮は、いつもの鶏のガラで出汁をとり、鶏肉と椎茸に春菊とネギで。それに、銀杏も入れてみる。もちろん、餅も。東京では角餅を売っていたが、九州は丸餅だ。
古代中国を偲びながら、お節料理を肴に屠蘇酒を飲んでいるうちに、元旦も過ぎていく。
1日は、そこそこ長い。しかし、人生は短い。
花の香に 誘われまよひ いつのまに
月のありかも 見失ひけり
九州といっても、佐賀を含めて北九州は寒い。
早朝まだ薄暗いとき目が覚めて窓の外の庭を覗いたら、松の枝葉の上に白い綿のようなものがのっていた。雪が降ったようだ。おそらく初雪だ。
銀世界の元旦も風情があると思ったが、再び起きて外を見てみると、空は灰色だったが雪が降ったのは夢だったかのように、雪の名残りもない元の景色がそこにあった。そのうち昼頃になると、青空が広がった。
いい天気になったし、近くの八幡神社に初詣に行こうと玄関を出たら、今度は雨が降り出した。傘を持って出かけたが、雨は通り雨のようにすぐにやんだ。
移り気な元旦の天気である。1日に、あらゆる天候を披露してくれた。
正月は日本酒がよく似合う。しかも徳利熱燗がいい。
だから、普段は日本酒を飲むことはあまりないのだが、年に一度日本酒を瓶(1升)で買う。正月に飲むためにだ。
例年、「窓の梅」(久保田町)にするのだが、今年は年末に塩田町(現嬉野市)に行ったので、そこで塩田の地酒の「東一」(あずまいち)を買った。
塩田町は平安の歌人、和泉式部の故郷だという伝説がある。にわかには信じがたい話だが、塩田町五町田には和泉式部公園があり、和泉式部の銅像すら建っている。
時は平安の時代、この地の美しくて賢い女の子の噂が京の都まで伝わり、請われて京に行き、その礼として田圃を与えられたのがこの地名の五町田の謂れだというのである。
その塩田町五町田の酒が「東一」である。
酒を買ったら、屠蘇が付いていた。
年の初め、元旦の酒は屠蘇酒である。
*
両親が生きていたときは、正月一日は、家族で屠蘇酒を飲んだ。父から始まり、母、そして息子である僕と弟と、順に屠蘇酒を朱塗りの杯(盃)に注(つ)いで、飲んでいった。ぜんぜん酒が飲めない父もこの日は、形ばかり屠蘇酒を口にした。といってもせいぜい杯1杯だが。
それから、お節料理をつまみながら、父以外の者は、この日ばかりは朝から、といっても昼に近い朝からであるが、杯を差(注)しつ差されつ酒を飲むのであった。
ある年のことだった。父が屠蘇酒を1杯飲んだあと、「よーし、飲んでやる」と言った。杯1杯で幾分赤くなる父を知っているので、みんなは驚いた。
「みんなが注(つ)いだのを、飲んでやる」と父は言った。
珍しいというより初めてのことだったので、面白がってみんな父の杯に酒を注いだ。 父は、3人が注ぐ酒を、順に一息に飲んだ。といっても、最初の屠蘇酒を加えて杯4杯なのだが、それでもみんな驚いた。
「親父も、まあまあ飲めるんだ!」、「意外と、飲もうと思ったら飲めるかも?」と言いあいながら、こちらが飲んでいるうちに、父は真赤になって横になってしまった。その日は半日死んだように寝ていた。
それから、父は飲むなどと口にしないし、みんなも飲ませようとはしない。
あの日はなんだったのだろう、と思うときがある。
*
屠蘇酒は、中国から伝来したものである。
「正月に屠蘇酒で祝う習慣は、平安時代に中国から伝えられ、宮中で用いられたのが始まり」と屠蘇の包み袋に由来が書いてあった。
屠蘇酒のことで、先日そうだったのかと思う文を見つけた。
日中の比較文化を研究している法政大講師である中国人の彭丹(ほうたん)さんの著書「中国と茶碗と日本と」(小学館)のなかの序文である。
著者は、日本に来た最初の正月に初めて屠蘇酒を飲んだと、その驚きを書いている。そして、中国でなくなったものが日本では残っている文化を見つけて感動もしている。
元旦に屠蘇酒を昔中国で飲んでいたということは、著者は知識で知っていた。しかし、現在の中国では、どこでも誰でも飲んでいなくて、それは歴史の資料としてあるだけだという。
日本人の僕は、屠蘇の由来を知らなかったが、著者は本書のなかで紹介している。
屠蘇酒を飲むのは、古代中国の習俗だった。屠蘇とは、大黄(だいおう)、白朮(びゃくじつ)、山椒、浜防風、附子(ぶし)、桔梗、桂心の7種の薬草を調合した薬の名である。元日の朝、屠蘇を浸けた酒を飲むと1年の邪気を祓うことができると信じられ、唐、宋時代に盛んに行われた。
それが、遣唐使によって日本に伝えられたのだろう。長安から京の都へ。京の宮廷から庶民へ。京都からいつしか全国へと広がったのだ。
また本書で、宋の詩人蘇軾(そしょく、蘇東披そとうば)の次のような、中国では有名な句が紹介されている。
「但(ただ)窮愁をして長健に博すれば、屠蘇を飲むこと最後を辞さず」
蘇軾の人生は波瀾に満ちていたが、どんな憂いがあろうとも、いかに貧乏であろうとも、健康であれば、私は元日の屠蘇を最後の飲むのを辞さないよ、と詩人は詠っている。
ここで僕がもう一つ発見したのは、屠蘇は年少者から年長者へと順に飲むのが慣わしということだった。
新しい年に若い人は1歳成長するので祝福の酒だが、老人になると1歳年をとるので懲戒の酒となる、とある。
わが家は、屠蘇酒は年長者の父から年少者の順に飲んでいたので、誤っていたということになる。
まあ、今年は(今年もだが)一人で飲むから、順番は関係ない。
しかし、年をとると懲戒の思いを抱いて飲まないといけないようだ。思い勝手に生きてきた人生を、反省しながら飲まないといけないのかな。
*
今年のお節料理は、以下のようなものである。
それらしいものは、黒豆と昆布巻きぐらいである。定番の田作り(ゴマメの甘露煮)の適当なのがなかったので、同じ小魚というので干乾し鰯焼きと昆布ちりめんで代替とした。
刺身はハマチ。
それに、九州ではスーパーに鯨が出ることは珍しくないが、こちらでも珍しい「生ウネ刺身鯨」というのがあったので買った。ウネとは鯨のどこの部分か店の人に訊いてみたら、背中あたりじゃないかなあと曖昧な返事だ。
ベーコンのような白から桜色に続く脂身で、食べると柔らかい。ウネを辞書で調べてみると、鬚鯨(ひげくじら)類の下顎の下面から胸にかけてある数十条のヒダとあった。
野菜煮は、カボチャとインゲン豆を煮た。ゴボウや人参、レンコンなどが入った煮染めとは違うが。
これに、蒲鉾と竹輪を加えれば、何とかお節料理らしくなるだろう。定番の数の子は、子宝を願う年でもないので省かせてもらった。
雑煮は、いつもの鶏のガラで出汁をとり、鶏肉と椎茸に春菊とネギで。それに、銀杏も入れてみる。もちろん、餅も。東京では角餅を売っていたが、九州は丸餅だ。
古代中国を偲びながら、お節料理を肴に屠蘇酒を飲んでいるうちに、元旦も過ぎていく。
1日は、そこそこ長い。しかし、人生は短い。
花の香に 誘われまよひ いつのまに
月のありかも 見失ひけり
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