ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(111)

2010-08-04 18:40:27 | Weblog



8月4日

 拝啓 ミャオ様

 それまでは毎日蒸し暑かったのだが、昨日の朝の気温は15度と、Tシャツだけでは寒いくらいの涼しさで、暑さの苦手な私は、北海道にいる喜びをしみじみと感じていた。もっとも、朝から暑くなくて涼しければ、すぐにでもやらなければならない仕事があるのだが。

 草刈である。草刈鎌(かま)一丁で、車の通る道に茂る草を刈っていく。日が差し込んでくる前の、早朝の1時間ほどの間、アブや蚊を追い払いつぶしては、流れる汗をぬぐいながら、ひたすらに草を刈っていく。北海道の言葉で言えば、数日もかかるゆるくない(楽ではない)仕事だ。
 作業している間は、ただ単純動作を繰り返すだけで、余り余計なことは考えない。一息ついて振り返ると、自分のやってきた成果の、刈り払われた道がすっきりとして続いている。
 それはどこかしら、山登りでの運動にも似ているところがある。ともかく、その一仕事を終えて、家の中に戻る。汗まみれのシャツとズボンを脱ぐ。たちまちのうちに、汗は乾き、肌はさらっとした感じに戻る。そこが本州の夏の暑さと違うところであり、私が北海道を好きな理由の一つでもある。

 それにしても、あの飯豊山(いいでさん)遠征第一日目の登りで、熱中症でフラフラになるほどの暑さ(7月30日の項)の中歩いたことは、今にしても思い出したくもないことだった。
 もう2週間もたつのに、いまだに、さて大雪の山にでも行こうかという気にならないくらいだ。かといって、飯豊山の思い出が悪かったというわけではない。むしろ、あの雄大な山容、豊富な残雪、数多くの花々が散在するお花畑に・・・もう一度行かなければと思うほどなのだから。

 飯豊山の花の印象は、と言われれば、とにかくいたる所に咲いていた黄色いニッコウキスゲの大群と、1800mくらいからの稜線の道の傍に、あちこちに群れ咲いていた、白い綿毛に被われたヒナウスユキソウ(いわゆるエーデルワイスの一種)である。

 それに数は少なかったが、この辺りの山だけに生育するというヒメサユリも、何箇所かで見た。それは、群生していても、わずか数本くらいのものであったが、あの上品な薄桃色の花びらは、辺りの空気が変わるほどにすがすがしい感じがした。
 同じユリ科のものとして、飯豊山では、圧倒的な数のニッコウキスゲの他にも、クルマユリと稀少種のヤマスカシユリ、そしてこのヒメサユリの4種もの花を見ることができた。
 写真は、杁差(えぶりさし)岳周辺で写したヒメサユリである。わずか一輪だけだが、二つの花が夕暮れの影の中から浮かび上がり、寄り添うように咲いていた。
 私は、あらためてこの写真を見て、この山旅の終わりでの出来事を思い出した。

 前回からの続きにもなるが、私は、4日に及ぶ山での疲れをいやすために、その日は登山口の小さな集落の民宿に泊った。明日から登るという客が5人と、山から降りてきた私の6人だった。
 その民宿には、かつて、この飯豊山登山整備に尽力したという80代半ばの老夫婦がいたけれども、殆んどの仕事を50代くらいのおかみさんが一人で取り仕切っていた。

 話を聞くと、ご主人はこの春に突然の病気で寝たきりになり、病院に入院していて、6人もの子供たちは、冬の大雪でこの集落は閉鎖されるために、遠く離れた町で暮らしているとのこと。
 夏場だけこの民宿をやるために、その町から、おじいちゃんおばあちゃんを連れてきて面倒を見ては、さらに朝4時に出発する客の送迎から、買出し、民宿の料理から掃除にいたるまでのいっさいを一人でやっているのだ。
 ただやっていくしかないからと、明るく笑う彼女に、私は、一人だけで余りにも好き勝手に暮らしている、自分を情けなく思った。

 翌日、一日に二往復だけのバスに揺られて街に出て、ローカル線の駅から電車に乗り、さらに終点で、同じ2両編成の電車にもう一度乗り換えた。
 温泉で有名な駅から、私の座る4名向かいあわせの席に、二人のおばさんが乗ってきた。都会風な身なりで、地元の言葉とは違う都会の言葉で、一緒に来た仲間の一人の話しをし、さらに夏休みの別荘での家族の集まりや、外国にいる夫のことなどが、切れ切れに聞こえてきた。
 私は、ただ窓の外の景色に目をやっていた。夏の熱気で霞む山々、緑の稲が揺れる田んぼ、照り返しの道を走る車・・・。

 ある小さな無人駅に、子供と若い母親が手をつないで立っていた。ドアが開くと、母親の方だけが乗ってきて、小学生くらいの子供は、「じゃーね、バイバイ」と言って、手を振った。
 ドアが閉まり、電車が動き出した。するとその、ビーチサンダルにランニングシャツ姿の子供は、手を大きく振りながら走り出した。最後は全速力で、電車に並ぶかのように・・・。すぐに、子供の姿は見えなくなった。母親は、入り口のドアのところに立ったまま、遠ざかっていく駅の方を見つめていた。

 私の胸の中に、一挙に、子供の頃の思い出がよみがえってきた。遠い田舎の親戚の家に預けられていて、街で働いていた母が、一ヵ月に一度、私に会いに来て、そしてまた別れて行く時・・・。
 あの走り出した子供の姿は、まさしく私の子供時代の姿そのままだったのだ。

 私は、こみ上げてくる思いのままに泣きたかった。しかし、隣からは途切れることなく二人の話し声が聞こえていた。私は、手のひらで頬杖(ほおづえ)をついて、必死に涙をこらえた。年をとった私に、もう母はいないのだ
 窓の外に、景色が流れていった。山あいの風景の中に、一つの大きな風力発電の風車が回っていた。私と同じように、彼女もそちらを向いて風車を見つめていた。

 回る、回る、風車は回る。時はめぐり、時代もめぐる・・・。

 他に座る場所があったにもかかわらず、その若い母親は、ドアのそばの手すりを握ったまま、終点の大きな街に着くまで立ち続けていた。
 
 私は、この親子の姿を見て、その事の次第を考えていた。
 彼女は、離婚して一人で子供を育てているのだ。その子供が夏休みになって、彼女は、田舎に住む自分の両親の元に、子供を預けに行ったに違いない。彼女は、夜から始まる仕事に合わせて、街に戻らなければならないのだ。何としてもあの子が、大きくなるまでは、がんばらなければと思いながら。

 電車が着くと、彼女の姿は人ごみにまぎれて見えなくなった。私は、その駅で乗換えて、新幹線のホームに上がった。乗降口を示す線の前に、今風な若い娘が立っていた。
 ショートパンツからすらりと伸びた足先には、ペディキュアされた足指がきらめき、その色に似合うサンダルをはいていた。反対側を走り抜けて行く新幹線の風に、亜麻色の髪をなびかせて、しきりにケイタイに指を走らせていた。
 
 二階建ての電車がホームに入ってきてドアが開くと、彼女は下の階に降りて行った。私は、二階の方に上がって、窓の外を眺めた。しかし、景色を見るには、余りにも速度が速すぎた。遠くに見える、里山の姿が、次々に流れていった。
 私は、一日で余りにも多くの人々に会いすぎて、疲れていた。その時、ふと私は、あの夕暮れの杁差岳に咲いていた、二つの花をつけたヒメサユリの姿を思い出した・・・。


 ミャオ、九州での暑い夏を何とかしのいでおくれ、もうしばらくしたら会いに行くからね。ごめんね、ミャオ。

                      飼い主より  敬具