ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(113)

2010-08-12 18:21:27 | Weblog



8月12日

 拝啓 ミャオ様
 
 前回書いたように、暑い日が続いた後、一昨日の30度をはさんで、曇り空や今日のような雨の日もあって、24度くらいの涼しさになってきた。これでよしと。
 特に三日前は、急に涼しくなって、午前中でも21度くらいまでしか上がらず、2時間ほどかけて、残りの草刈の仕事をやり終えた。十日もかかったが、ようやくすっきりとして気分がいい。

 そのことを、近くにいる友達に話したら、「たかが草刈に、時間かけすぎだぁ。もう草生えてるわ。」と笑われた。確かに、10日前に最初に草刈を始めた所は、さすがに夏草の勢いで、もう気になるほどに伸びていた。
 しかし、たとえ一日二日でこの仕事を終わらせることができるとしても、あのエンジン刈り払い機を買ってきて、草刈をしたいとは思わない。時間の無駄、労力の無駄とわかってはいても、今までどおりに、やり続けなければならないこともあるのだ。

 それは、考えてみれば、理屈ではなく、自分の意地でもあって、いわゆる年寄りの頑固さ偏屈(へんくつ)さは、こんな所から始まるのかもしれない。
 さらに付け加えれば、草刈の苦労に耐えた彼方にあるはずの、ささやかな達成感を求めて、つまり、タイツ姿の女王様にムチで叩かれる喜びとかいう、そんな自虐的な体を痛めつけるマゾ的な傾向があるという訳ではなく、ただ苦痛から解放された後に、その自分の成し遂げた成果を、眺めることのできる喜びからだということなのだ。
 それは、あの飯豊山(いいでさん)は足の松尾根での、長い苦痛から、いつしか意識を失う寸前にまでなった状態の後、ようやく山々の展望を得た時の喜びと似ている(7月30日の項)。

 ともかく、当面の草刈作業を終えて、さらに涼しくなったこともあって、録画していた番組のいくつかを見た。(この前の暑い時には、部屋でテレビを見るのさえイヤだった。テレビからの放熱で、部屋がさらに暑くなるからだ。)
 
  その録画番組の一つが、『劔岳(つるぎだけ) 点の記』(2008年 木村大作監督)である。
 明治時代に、当時の陸軍参謀(さんぼう)本部に属していた陸地測量部が、まだ空白地として残っていた、前人未到の剣岳への登頂を命じられ、日本山岳会との初登頂争いもからんで、ついにはその測量登山を成し遂げるという話である。
 この映画は、その公開前から、華々しく宣伝されており、私ならずとも、山好きな人ならぜひとも見たいと思っていた作品なのである。

 山岳文学の第一人者であった、新田次郎の数ある小説の中では、『孤高の人』と伴に、1、2位を争う作品だけに、ましてその背景になる剣岳(つるぎだけ、劒は旧字)の姿を思うと、すぐにでも映画館に行きたくなるほどだったのだが、生来の出不精と、何か気になるところがあって、いつかテレビで放映されるだろうからと、見ないままだった。
 そして先日、民放で放送されたものを録画して、11箇所ものCM部分を削除、編集して、ようやく前編を通してゆっくりと見ることができた。

 本来、公開時の139分のものが、テレビ用に124分に短縮されていたから、正当な評価はできないのだが、それでもやはりこの映画については、若干の批評をしたくなる。
 まず、第一にスクリーンに映し出された、剣岳他の山岳風景に関しては、その雄大なスケール感にただただ圧倒されるばかりだった。惜しむらくは、山々の姿をぐるりと映し出すシーンで、キャメラを早く移動させすぎであり、できることならそこには、写真鑑賞的な長めな時間がほしかった。
 それにしても、室堂(むろどう)、立山(たてやま)、別山(べっさん)、剣御前(つるぎごぜん)から、さらに馬場島(ばんばじま)や裏剣(うらつるぎ)の仙人池などからの、剣岳の姿をとらえた映像には、そのたびごとに感嘆の声をあげるほどだった。
 
 日本の山の中から、一つだけを選べといわれれば、ランドマーク(目印)としての富士山や槍ヶ岳と、他にも南北アルプスの山々や北海道の山々の間で、思い迷うことになるだろうけれども、好きな山を二つだけといわれれば、即座に返答できる。この剣岳(裏剣から小窓、大窓などを含む)と、穂高連峰(西穂から北穂までを含む)である。
 それほどに私の好きな山であるから、もちろん登ったこともあるし、それらのほとんどの方向からも眺めている。
 私の剣岳の思い出の一つは、まず登った時のことよりも、あの仙人池周辺から眺めた八ッ峰の姿である。ずいぶん前の話だが、まだ小屋のオヤジさんが元気でヘリコプターで来ていた頃で、その時の小屋のかあさんの笑顔と、地元富山コシヒカリのご飯の味がが忘れられない。

 そしてもう一つは、三年前の、あの晩秋の立山連峰周遊の山旅だ。
 どうしても、晩秋(初冬)の雪に被われた剣岳(2998m)の姿を見たかったのだが、ああ果たせるかな、天は私の願いを聞いてくれて、四日間の室堂滞在の間、三日間も続く快晴の空で迎え入れてくれたのだ。(いつもの、2ヶ月前予約のバーゲン飛行機切符でやって来たのに。)
 一日目は、午後から雲が取れ始めた立山の雄山(3003m)に登り、二日目には快晴の空の下、剣御前(2776m)と別山(2874m)から心ゆくまで、新雪の剣岳を眺め(写真)、三日目には、さらに続く快晴の天気の中、浄土山(2831m)、龍王山(2872m)、立山(雄山、大汝山、富士ノ折立)、真砂岳(2861m)へと縦走し、四日目にその立山を離れた。

 雪は稜線の吹き溜まりで1mくらいだったが、多少ピッケルを使うところがあっただけで、青空の下の立山、剣岳の姿を眺めながらの山上漫歩(まんぽ)を楽しむことができた。
 殆んど人に会うこともない、静かな雪山歩きの丸三日間、何と言う幸せなひと時だったことだろう。それは、私の長い山行歴の中でも、恐らくは五本の指に入るだろう思い出深い山旅だった。

 映画では、その岩を張りめぐらしたような、厳しい剣岳の表情が、春夏秋冬それぞれの姿でよくとらえられていた。
 さらに、遠くからのロング・ショットで、豆粒のように見える測量隊一行が稜線や雪渓を歩いて行く姿には、大自然に挑む人間たちとの対比が見事に描き出されていた。
 あの弥陀ヶ原の南、立山カルデラ内にあった旧立山温泉を拠点にして、測量隊の一行が、馬場島に室堂に剣沢にと幕営(ばくえい)地点を移して行動するさまも、よく見て取れた。

 何より、今から百年も前の明治時代末期に、長次郎を初めとする山案内人たちが、脚絆(きゃはん)にワラジ、蓑(みの)笠姿で、十貫目(約37kg)前後もの荷物を担いで、よく山に登ったものだと感心するが、そのスタイルを忠実に追って、実写撮影していったこの映画のスタッフたちの苦労が思いやられる。
 その年の日本アカデミー賞などでの、数々の受賞は、そんな彼らスタッフへの、努力賞としての意味合いが大きかったのではないだろうか。

 つまり、厳しく言えば、彼らの努力は分かるけれども、映画としての、完成度については、私は、やはりそうだったのかと軽い失望感を抱いたのだ。
 今も手元にある、新田次郎の原作本を詳しく読み直す余裕はないけれども、確かにこの映画は、その原作に沿ってかなり忠実に描かれているとは思う。しかし、これは、その史実をドキュメンタリー・タッチで描いたものでもなければ、小説の完全映画化でもない。
 つまり、小説の概要をまとめた、ドラマでしかないという点だ。さらに厳しく言えば、日本映画にありがちな余分なセリフ、感情過多な表現に、どうしても私は、日本の大衆芸能の臭いを感じてしまうのだ。
 もちろん、私は歌舞伎や人形浄瑠璃(じょうるり)をはじめとする古典芸能を見るのが好きだし(7月10日の項)、講談、浪花節、落語にいたるまでの大衆芸能を、しばしばテレビなどで見ては聞いては、楽しんでいる。
 それらは、私たち日本人の心の琴線(きんせん)に触れる芸能の系譜でもあるし、重要な文化遺産でもあるからだ。

 しかし、私は映画による映像は、現実に目の前で展開される芝居演劇とは、まったく別の表現世界だと思っている。
 時間と同時進行の中で、偶然性をも取り込んで一過性として進行する舞台劇と比べれば、映画は、はっきりと作者の意図を映像化するために、何度もその効果を考えて作り直すことができるし、最終的に時間空間を越えて、自分の表現する唯一の世界を作り出していく、ひとつの動く映像芸術なのだ。
 それはまた、絵画や文学などの芸術世界に近いというよりは、ある映画監督が言っていたことだが、むしろクラッシック音楽の世界に似ているとも思う。

 考えてみれば、私の愛するヨーロッパ映画などでは、そのことをはっきりと意識していて、自分の信じる芸術世界だけをひたすらに表現していくか、あるいは観客側の反応や感情を巧みに利用して、自己の芸術世界に引き込むかといった、明確な自己主張に溢れているものが多い。
 しかるに、日本の場合、それは歌舞伎や浄瑠璃以下の演芸に見られるように、筋立てと盛り上がりの場面での、ある種のミエをきることが重要であり、誰にも分かりやすいようにと、親切にもその愁嘆(しゅうたん)場を指し示してくれるのだ。
 そのスタイルをそのまま、映像世界に持ちこみ、映画化したところで、単なる舞台の映像化にしかならないのだ。もちろんそれはそれで、記録的にも大いに価値のあることではあるが。

 多大の顰蹙(ひんしゅく)をかうことを覚悟で言えば、この映画『劔岳 点の記』におけるセリフの半分以上を削除したいし、彼らや彼らの妻たちがが涙を流すのは、できるなら一場面くらいにして、他はすべてカットしたい。感動は、役者たちの涙から生まれるものではないからだ。
 例えばそのラストシーンは、私ならこうしたいと考える。
 
 前人未到と思われていた剣岳山頂で、錆び付いた剣と錫丈(しゃくじょう)の頭を発見した時に、彼らは、その昔、様々な艱難困苦(かんなんこんく)を排して、一人で登ったであろう、信心深く勇猛果敢な行者のことを思い、長次郎他の山案内人たちは、その場で笠を脱ぎ、はちまきの手ぬぐいを取り、ひざまずいて手を合わせ、測量官柴崎の目には一筋の涙が流れる。
 頂上にいる彼らの姿が薄れていき、やがて重なるように、巨大な剣岳の姿が画面いっぱいに広がり、そこにテロップ(字幕)として、彼等のその後の経過が流れる。・・・一行が登った雪渓の谷は、その後、長次郎谷と名づけられ、柴崎がその頂上の4等三角点で測量した剣岳の高さは、近年GPSで測量された数字とさしたる違いがないほどに、正確なものだった。・・・そして終わりの文字が映し出される。

 何も原作どおりに、総花的にすべてを描き出そうとするのが、映画の本質ではない。映画とは、映像フィクションとしての確固たる一分野を画する芸術なのだ。絵画や音楽がそうであるように。
 何も、出演者にすべてを語らせることがドラマではない。沈黙の時間は、その中にこそ、それぞれの人の思いが錯綜(さくそう)する、重要なひと時なのだ。

 そこで、ある映画のことを思い出した。映画全体としてみれば、さほど名作と呼べるほどの作品ではなかったのだが、あのロミー・シュナイダーとジャン・ルイ・トランティニアンが演じた『離愁』(1973年、原題は『列車』)のラストシーンほど忘れられないものはない。
 戦時下のフランス。ドイツ軍進行から逃げるための列車の中で、ある女とゆきずりの一夜を伴にした男が、3年後にゲシュタポに捕らえられたその女に面通しをされる。そんな男は知らないとシラを切るレジスタンスのユダヤ人女に、男は自らの危険を顧(かえり)みずに、彼女をその腕に抱くのだ。

 その時の、相手役ロミーー・シュナイダーの表情・・・。
 映画はそこで終わる。彼らが引っ立てられて、銃殺になる所までを、映し出す必要はないのだ。
 なぜなら、この映画の伝えたいことが、究極の状況にある時、人はどうするのか、相手が昔の恋人だとしたら、という重い愛のテーマだったからだ。

 私は、昔の恋人に対する自分の不実さと合わせて、このシーンを見ながら涙を止めることができなかった。後悔するほどの人生ではなかったが、私には、余りにも懺悔(ざんげ)するに値するほどの心変わりが多すぎたのだ。
 それらのすべての報いを受けて、こうしてひとりでいるのだ。やがては、ひとりで死んでゆくために。
 ただその時のために、自分だけのためにも、これからも強くあらねばならない。
 
 雨が降っている。木々の枝葉のしずくを受けて、音が聞こえる。もうずっと、変わることなく、静かに雨が降り続いている。
 雨は晴れた空を憧れ、青空は雨粒を思うだろう。

 ミャオ、オマエのことは決して忘れていないからね。暑くてつらいだろうがもう少し、辛抱しておくれ。

                      飼い主より 敬具