ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

飼い主よりミャオへ(114)

2010-08-16 18:34:26 | Weblog
 

8月16日

 拝啓 ミャオ様

 昨日は、朝からの雨が降り続いて、気温も22度くらいと涼しい一日だったのに、何も仕事はできなかった。最近よくかかるようになった、鼻風邪で頭が痛かったからだ。

 この頭痛は、風邪薬を飲めばがすぐにおさまるのだが、寄る年波のことを考えて、なるべく薬を飲まずに済ませたいと思っている。
 もう一年前くらいのことだが、最近流行の免疫療法(めんえきりょうほう)なんぞの本を、本屋で立ち読みしてみると、「風邪をなおしたければ薬は飲むな」などという、過激なことが書いてあるが、それも読み進めばなるほどと思えたのだ。

 ともかく、今まで飲んでいた市販の風邪薬をやめてみた。しかし、相手は薬を飲みたいと思うほどに、ガマンできない頭痛だ、あー痛いと言いながら耐えられるものではない。
 自分でできるツボを押さえたり、ネギを鼻に突っ込んでみたり、ぬるま湯で鼻うがいしたり、蜂蜜プロポリスをうがい飲みしたりしたけれど、効果はない。
 そこで、さらに思い出したのは、体を温めればよいといった類のことがその本に書いてあったことだ。

 まず押入れから、冬用の小さい貼るカイロを取り出した。このカイロは、秋から冬、春先にかけて、寒い山で写真を撮る時に、カメラのバッテリーを温めるためにいつも常備してあるものだ。そのカイロをタオルに貼って、首筋やうなじに当たるようにして巻きつける。ついでに、日本手ぬぐいで頭に強めにハチマキをする。
 自分で鏡を見ないから、分からないけれども、鬼瓦(おにがわら)顔にタオルのマフラーと鉢巻の姿。知らない人が見たならば、あの品川は鈴ヶ森処刑場のさらし首かと、見間違えたに違いない。
 ちょうどお盆時だし、母のお盆供養のためにつけてある、くるくる回る常夜灯(じょうやとう)に照らし出されて、我ながら、ああ、恐ろしや。
 
 このスタイルを思いついたのは、昔の時代劇で、病気の殿様が長めの鉢巻(ハチマキ)をして、「あーゴホゴホ、九太夫、そちのよきにはからえ。」と言って再び床に伏せ、それをよいことに悪だくみを働こうとする、悪家老九太夫が不気味に笑うシーンなどを覚えていたからだ。
 しかし、このカイロとハチマキが効くのだ。少しずつだが、その頭痛が治まってゆき、夕方までには直ってしまう。もちろん、これは私の体質に合うというだけのことで、誰にでも効くということではないだろうが、ともかく私には安上がりの治療法なのだ。

 思えば、その前の日に、少し外での片付け仕事をして汗をかき、久しぶりにゴエモン風呂をわかして入ったりして、その後パンツ一枚姿(ああ見たくもない)でいたからだろうか。
 あの日は、晴れて少し暑くなったけれども、風がさわやかで、外に出て仕事をしたくなったのだ。

 庭の隅には、いつもより1ヶ月ほども早く、2m近くにも伸びたオニユリが咲き始め(’09.9.16の項参照)、そこにはキアゲハ(写真)やカラスアゲハが集まってきていた。その他にも、あのキベリタテハも日陰になった所を飛び回っていた。
 この家の庭には、ジャノメチョウ科やタテハチョウ科の蝶が多いのだが、このキベリタテハを見たのは久しぶりで、しみじみと見入ってしまった。(写真は撮ったが、ピントがシャープに合っていなかったので、割愛する。)
 それにしても、あの黒に近い濃い赤紫の地色の羽の端に、コバルトブルーの斑点を並べ、その外側に名前の由来でもある、黄色で縁取られた色合いを見ると、私はいつも、まるで帝政ロシア時代の貴婦人が着ているかのようなビロードの上着や、あるいはさらに大きな、舞台やスクリ-ン前にに引かれた緞帳(どんちょう)を思い出すのだ。
 
 前回、私は、自分の思うままに、素人(しろうと)批評家の勝手さで映画批評をひとくさりしたけれども、それはあくまでも映画を芸術作品として意識したものについてであり、映画の様々なジャンルまでをも包括して言ったわけではない。
 それは例えば、私は見ないけれども、ハリウッド式のスペクタクルやアクション、ホラー映画には大衆受けする面白さがあるだろうし、ミュージカルには音楽映画としての楽しさがあり、ドキュメンタリー・タッチの映画には記録としての貴重さがあるだろう。
 つまり、映画は、個々人がその多様な楽しみを、作品ごとに選び取ればいいだけのことだ。

 それでも、私は、あのルミエール兄弟の世界始めての『列車到着』(1895年)映像フィルム以来、映画が目指してきたものは、一つには確かに、最近のコンピューター・グラフィックスや3D技術などによる最新映像表現の面白さにあるのだろうが、それ以上に、人々が得た新しい映像媒体による芸術表現であると信じている。
 それは、映画を見ては、ゲラゲラ、シクシク、ドキドキ、ウットリなどと、笑い泣き叫び夢見るような、直接に人間の感情に訴えかけてくるものと、難しいテーマを提示され、自らの考え判断を迫られるような映画との違いである。一過性の感覚の楽しみと、後々まで考え続けることになる楽しみとの違い。
 
 前回にも書いたように、そんな映画芸術として常に私の念頭にあるのは、例えば生と死などの重い主題を、絵画的に構築された背景の中で描いたイングマール・ベルイマン(1918~2007、『叫びとささやき』などの作品があり、それらの多くは心理描写に徹底した舞台劇的作品でもある)や、アンドレイ・タルコフスキー(1932~1986、『ノスタルジア』他)、テオ・アンゲロプロス(1935~、『旅芸人の記録』他)などが作る作品である。
 さらに、普通の人々の日常の一断面を切り取って、劇的な人生の真実を描いた、フランソワ・トリュフォー(1932~1986、『隣の女』など)やエリック・ロメール(1920~2010、『緑の光線』)などの、フランスの監督たちの作り出した映画も、深く人生を考えさせられる。
 つまり、これらの映画は、面白いから当たるからとして作られた作品ではなく、自分の映画における芸術的信念として作られているのだ。

 もちろんそこには、フランスなどのように、国が自国文化の保護に熱心であり、映画の制作費を補助するなどの場合と、アメリカのように、商業資本によって、新たなお金を生み出すために作られた映画との差があり、基本的な出発点が違うのだから、議論の争点にはならないのかもしれないが。
 日本映画は、残念ながら、アメリカ映画に近い立場にあり、まずは最大の観客層である若者向きに考えられ、興業的に成功することが求められている。だから、若者が見ようともしない芸術的に意図されて深く考えさせるような映画は、作られにくいのだ。
 もちろん、私は日本映画の例えば、黒澤明、溝口健二、小津安二郎などの作品群を高く評価している。しかし最近の日本映画で、感動したものは残念ながら一作品もない。余り、見ることはないし、期待はずれになるから、また見なくなるという悪循環だ。
 ただ、あの河瀬直美監督の『殯(もがり)の森』(2007年)は、日本的な茶畑のシーンなどが美しく、将来の作品をも期待させるものだったが。
 
 私が映画に求めるもの、それは単純なことだ。映画を見ていて、疑念をさしはさませないもの、つまり、ここはおかしいとか、変だとか思わせないものであれば良いのだ。
 なぜなら、疑問を感じた瞬間、その映画を十分には楽しめなくなってしまうからだ。

 ここで、畏(おそ)れ多くもあの黒澤明監督の名作、『羅生門』(1950年)について言えば、(繰り返すけれども、この作品はあの『七人の侍』(1954年)と伴に日本映画の1、2位を争うものだと信じている。)しかし、せっかくの主役三人による、見事な幻想劇の後に、再び雨の羅生門に戻っての、僧や男たちの余分な教訓話は要らなかった。
 とは言っても、印象に残る名シーンは多い。例えば、盗賊の男が女を手ごめにするシーンで、下になった女が見上げる木もれ日のきらめきの美しさ。
 これは、後年、あのイギリスの名匠デイヴィッド・リーンは、『ライアンの娘』(1970年)の中の不倫の恋の逢引のシーンで、同じような美しい枝葉のきらめきのカットを入れていたことを思い出すし、逆に、白砂のお裁きの場に引き出された女のシーンでは、あのカール・ドライヤーの名作『裁かるるジャンヌ』(1928年)を思い浮かべずにいられない。

 ここまで書いてきて思うのは、私のベスト5の映画として(それは何も上にあげた監督たちの作品ばかりではないのだが)、心に残る一作、あのシェンゲラーヤ監督の『ピロスマニ』(1969年)を、何とかしてもう一度見たいということだ。
 有名な『百万本のバラ』の歌の主人公でもある、薄幸のグルジア人画家、ピロスマニ(1862~1918)の半生を描いた映画であり、そのセリフの少ない、静寂さをたたえた絵画的映像に、私は深く打ちのめされ、感動した記憶があるからだ。
 今、DVDは売り切れ絶版だし、中古で買うには余りにも法外な値段だし、ここはNHK・BS放送に何とかお願いするしかないのだが。

 長々と映画のことについて書いてきたが、とてもこのくらいでおさまりきれるはずもない。私の人生における、偉大なる師でもある映画については、恐らくここで一年かかっても、書き尽くせることはあるまい。
 良き映画の前では、私はいつまでも、尊敬する師の前にいる、思い悩むただの一生徒でしかないからだ、幾つになっても。

 今日は晴れ後曇りで、日中は30度まで上がったが、家の中は、クーラーなしでも24度と涼しかった。内地では、猛暑日になるほどの灼熱の太陽が照りつけているという。ミャオは元気でいてくれるだろうか。

                       飼い主より 敬具