ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(144)

2010-03-27 17:03:48 | Weblog


3月27日


 全く最近の天気は、少しおかしいと思う。2月に、あれほど暖かい日が続いたのに、この3月は、暖かい日と寒い日の差が大きすぎるのだ。
 この前の三日間は、雨がしとしとと降り続き、外は冬のような寒さで、一日中、ストーヴの前で寝ているしかなく、時々飼い主が、ワタシに噛みつきごっこをして遊んでくれるくらいのもので、全く、他にすることもないのだ。
 そんな中で、夕方のサカナの時間だけが、唯一の楽しみであり、一日中の退屈さも忘れてしまう。サカナをおいしく頂いて、体と心がが満足すると、元気いっぱいになり、夜にかけて、家を何度も出入りしたり、突然部屋の中をダダダーっと駆けだしたりして、少し飼い主に叱られるほどだ。

 昨日の朝は、雪も降るほどに冷え込んだけれども、ようやく今日は、朝からいっぱいに日が差してきている。もうこれからは、雨も降らずに寒くもなく、ベランダで寝たり、散歩に行ったりして、外ですごすことができるようになってほしいものだ。ワタシは、やはりノラネコあがりの半ノラネコなのだから。


 「家の近くでも、ちらほらと桜の花が咲き始めたというのに、この所の寒さはどうだろう。気温は、朝の2度位から、余り上がらずに4度位の、寒い雨の日が三日間も続いた。
 さらに昨日は、-4度まで冷え込んで雪もちらついていたし、今日もー5度まで下がっていたが、今は、久しぶりの穏やかな快晴の青空が広がっている。ようやく、幾らかは暖かくなってきた。
 遠くに見える山々の頂は、白くなっている。昨日の午後から晴れてきたのだが、今日、山登りに行くには雪が解けて遅すぎるし、またも休日の日だから、クルマも人も多いだろう。
 すっきりと晴れた日に、家に居るのはつらいことだが仕方ない。すっかり間が開いてしまったブログの記事でも書くことにしよう。

 さて、そんな寒い雨の日が続いて、ミャオも私も外に出られずにいた時、家で、二本の長時間もののオペラと歌舞伎を見た。
 一本は、前にも、あのクライバーの『カルメン』の所で触れた(’09.9.5.の項)、例のデアゴスティーニの名作オペラシリーズからの一つ、ワーグナーの『ローエングリーン』である。
 このオペラについて書き始めると、また長々と、どうでもよいことばかり書いてしまうので、ここでは、一言だけ、つまり映像が昔のビデオ並みに良くなくて残念だったが、それでも十分にワーグナーを楽しむことができたということだ。
 それにしても、このデアゴスティーニのオペラシリーズは、1990円という値段なのに名演ぞろいであり、私も他に『トゥーランドット』を含めて、合わせて3作も買ってしまったほどだ。

 もう一つ見たのは、3月20日に、NHK・BSで放映された、”歌舞伎座さよなら公演”、『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の後半、五段目から十一段目までである。
 これは、去年の11月に歌舞伎座での、いつもの「吉例顔見世(きちれいかおみせ)大歌舞伎」の公演で、昼夜合わせての、通し狂言(とおしきょうげん)として演じられたものである。

 昼の部としての、前半の舞台、『大序』『三段目』『四段目』『道行旅路の花婿(みちゆきたびじのはなむこ)』は、すでに1月23日に放映されていて、高師直(こうのもろなお)に中村富十郎、塩谷判官(えんやはんがん)に中村勘三郎、大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)に松本幸四郎、草野勘平(かんぺい)に尾上菊五郎、お軽(かる)に中村時蔵という、豪華キャストで、これも良かった。
 というよりも、この『仮名手本忠臣蔵』は、通し公演をすれば今回の場合でも、8時間余りもかかってしまい、普通の歌舞伎の公演では、その日の舞台として、各段のうちから一つだけを取り上げるだけで、通しとして演じられることはめったにないから、もうそれだけでも、歌舞伎界の一大イベントなのである。
 私も、通しとしての『仮名手本忠臣蔵』を見るのは、テレビでとはいえ、初めてのことであった。

 私が、初めて歌舞伎を見たのは、地方から上京して学生時代を送り始めたころのことである。その後も、そのまま東京で働くようになり、芝居好きだった今は亡き母が、年に一度は上京して、一緒に新派に新劇、歌舞伎などの舞台を見に出かけたものである。
 しかし実際にいえば、歌舞伎座でその舞台を見たのは、わずか数本くらいのものだから、あのオペラの場合と同じで、それだけ熱心なファンという訳でもなく、歌舞伎に詳しい訳でもない。
 ただ時折、テレビで面白そうな演目があれば、今でもこうして、見たくなるというたぐいのものである。しかし、オペラの場合もそうなのだが、見終わるといつも、ああ良い芝居だったなあと思う。
 それは、歌舞伎の演目が、私たち日本人の心根に、直接訴えかけてくる、哀しくいさぎよい情感に満ちあふれているからだろうか。

 その当時の、『仮名手本忠臣蔵』の幾つかの演目では、少し古くなるが、先代の松緑(しょうろく)、梅幸(ばいこう)、羽左衛門(うざえもん)などといった今にして思えば、重量級の配役の舞台を憶えているし、その後、若い海老蔵(えびぞう、今の十二代目団十郎)や孝夫(今の仁左衛門)と、玉三郎などとの組み合わせでも見ているが、それにしても久しぶりに見た忠臣蔵であり、この二回に分けて、それぞれ4時間ずつの舞台を、面白く、そして興味深く見ることができた。

 前回、1月23日放送分の大序から四段目までの話は、塩谷判官(つまりは浅野内匠頭のこと)が高師直(吉良上野介)から、辱(はずかし)めを受けて刃傷(にんじょう)に及び、切腹するまでと、その場に駆けつける大星由良之助(大石内蔵助)がその後の城明け渡しをするまでと、さらには史実にはないが、草野勘平が主君切腹の場に居なかったとして咎(とが)めを受け、腰元であったお軽との駆け落ちの道行の話しが付け加えられている。

 そして今回見たのは、次の五段目からで、勘平とお軽の話の続きになる。山崎の田舎に住むお軽の両親のもとで、猟師になって暮らしていた勘平は、夜の道すがらかつての侍仲間に会い、主君仇討(あだうち)の話を聞かされる。
 それを伝え聞いたお軽の両親は、お軽を茶屋に身売りして、その用立てたお金を仇討の資金にして、勘平も仲間に加われるようにと考え、お軽の父親の与市兵衛は京都へと行く。そして話がまとまり、半金の五十両を手に家に戻る途中に、追いはぎにあって殺され、お金を奪われてしまう。
 一方、夜明け前のイノシシを追っていた勘平は、誤ってその追いはぎを鉄砲で撃ってしまい、死んだ相手の懐(ふところ)にあった五十両を、そんな金とは知らず、手にして家へと向かう。
 そこでは、母親とお軽が父親の帰りが遅いと心配している。そこへ、勘平が帰ると、身売り先の、京都の茶屋の内儀と手代がやってきている。ここで話の次第を聞いて、自分が誤ってお軽の父親を殺し、その金を手にしたのだと誤解して、お軽が駕籠(かご)で都に連れられて行った後、自ら切腹に及ぶ。駆けつけた、侍仲間から、誤解だったことを知らされ、今はの際(きわ)に、連判状に血判を押して、死んでゆく。

 前後の話は、その登場人物たちの名前を変えてはいるが、大体赤穂浪士の仇討事件に即して描かれている。しかし、恐らくはそれだけだと、いわゆる実事(じつごと)的な話だけが続いて、色気がないからと、和事(わごと)的なものとしての勘平、お軽の話を挿入したのだろう。
 さて、続く七段目は、あの有名な大星由良之助の敵を欺くための茶屋遊びの場面であり、そこに、売られて奉公していたお軽と、その兄であり足軽奴の平右衛門との対面があり、勘平の死を知らされての、愁嘆場(しゅうたんば)になる。

 そして、八段目から十段目までは、省略されていて、そして最後の十一段目の討ち入り、引き上げ場で、目出度く幕になる。

 以上の、それぞれの段を、一度は見たことがあるのだが、上にも書いたように、通しとしての公演を見たのは初めてである。ただそうなると、どうしても一部に、つながりの悪いところが出て気になる。
 例えば今回の、あまり上演されることのない八、十段目がないのはともかくとしても、九段目の、あの由良之助の『山科閑居の場』における、二組の家族の、命をかけたやりとりの場面を見ることができなかったのは、少し残念な気もする。

 そして、最後の十一段目では、幾つもの慌ただしい場面転換の手際の良さには感心したが、それまでの各段の情感あふれる場面からすれば、私たちは他に、映画などで感動的なクライマックスを見ているだけに、どうしてもその錦絵的な終わり方には、物足りない思いが残る。

 さて、この『仮名手本忠臣蔵』について、いろいろとここで、あれこれ勝手な意見を述べるのは、たいしたなじみもない門外漢(もんがいかん)の私がするべきことではない。長い歴史を有する、歌舞伎の歴史と現在については、確かな学問の分野として、研究されているのだから、それぞれの専門書をひも解いて調べるべきことであろう。
 ただ、江戸時代から大衆芸能として愛されてきた、この歌舞伎について、今回の後半の舞台から、私の思いをひとくさり書いてみたいと思う。

 それは、上にあげた、五段目に出てくる追いはぎの斧定九郎(おのさだくろう)についてである。ほんの一場面に登場するだけの人物であるが、実はこの後の七段目に出てくる、裏切り悪役の元家老、斧九太夫(おのくだゆう)は父親であり、その父から勘当(かんどう)された身でもあるのだ。
 そんな、落ちぶれた定九郎が、稲わらの中に隠れていて、五十両を持って家路に向かうお軽の父親、与市兵衛を殺して、ぬっと現れるシーン、私ならずとも、その目にも鮮やかな無言の一場面を、待っている人も多いはずだ。

 今回の、定九郎役の、中村梅玉(ばいぎょく)が素晴らしかった。夜明け前の薄暗がりの中、稲わらの中から、色悪と呼ばれる白塗り美男の悪役が、黒羽二重(はぶたえ)の着物を着ていて、奪い取った財布を口にくわえて、現われるその立ち姿の鮮やかさ。(写真)
 まず、抜き身の刀を拭いて、それから静かに、雨に濡れた両袖を絞り、その手をからげた裾で拭いて、財布に手を入れ、「ごじゅうーりょうー」と声を上げる。三味線が怪しげに鳴り、遠くの寺の鐘が一つ聞こえる。セリフはその一言だけだ。

 この場面を、粋(いき)とか、立ち姿の美学とか、間(ま)とか、沈黙の美学とか、余計な修辞の言葉で飾り立てたくはない。一つの完結した形、一幅の絵として、黙って眺めていたいだけだ。
 さらにこの後、定九郎は、イノシシに間違われて、勘平の鉄砲で撃たれて死んでしまうのだが、その死にゆく場面の、口に含んだ血が太ももに滴り落ちてゆき、そのみえを切った姿もまた素晴らしい。

 この定九郎の役は、若手役者の登竜門(とうりゅうもん)でもあり、吉右衛門が良かったとか、海老蔵が良かったとか、いろいろとあるだろうけれども、私は、今回の凄味をきかしたわけでもなく、派手さを見せたわけでもない、梅玉の落ち着いた中庸の演技の中に、人間の哀しみさえも見た気がした。

 ちなみに、本来はボロ衣を着た、落ちぶれた侍姿の定九郎役を、今あるような形に演じたのは、1780年代、江戸時代の天明文化と呼ばれるころの名役者、中村仲蔵であるといわれている。歌舞伎はこうして、演技者の思いを込めて、少しずつ変わって来たのだろうが、本質的な、浄瑠璃(じょうるり)の語りと三味線、そして役者の演技や化粧を含めて、衣装や基本的な舞台装置など、大もとの所では、伝統を受け継いできているといえるのだろう。

 それを思うと、現代のオペラが、前にも書いたように(3月10日、18日の項)、大きく現代的な演出へと変わりつつあるのが、私にはいまだに理解できないところでもある。変えるべきところと、変えてはいけないところ、いつの時代でも難しい問題ではあるのだが。

 ただ、能、狂言、歌舞伎などだけではなく、私たち日本人は、豊かな感情や心を表わす、様々な伝統芸能を受け継いできているのだ。それはもちろん、他のいくつもある伝承文化とともに、現代に生きる私たちの心の奥底に、いつしか受け継がれ、深く沈潜していたものかも知れない。ただ気がつかないだけで。

 古きを知ることは、良いことだと思う。同じ考えや思いの人々が、ずっと昔の時代にもいたということ、その彼らと、ささやかな話ができるということ・・・。
 人は弱いものだから、ある時には群れたがり、ある時にはひとりになりたいと思う。それでも、ひとりきりではいられない。仲間がいない時、それでも良く見てみれば、現在ではなくとも、古(いにしえ)の広大な世界があり、古典の世界の中には、いつも誰かが待っていてくれるのだ・・・。」


 参考文献 : 『歌舞伎の楽しさ』(文芸春秋デラックス、昭和51年)、『新編国語便覧』(秋山虔、中央図書)、ウィキペディア他のウェブ。

(追記 : 松本様、645N2処分、悪しからず。またいつか山で。)