ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(140)

2010-03-10 18:57:47 | Weblog


3月10日


 コタツの中で寝ていて、朝になり、飼い主が起きてきて、ストーヴの火をつけた。しばらくしてから、ワタシは、トイレに行きたくなった。
 飼い主に、玄関のドアを開けてくれるようにと、ニャーと鳴く。しかし、突然、雪混じりの強い風が吹き付けてきて、目の前には一夜にして、白銀の世界が広がっていた。なんじゃ、こりゃー、と思わず言いたくなるほどの風景だった。
 雪が積もったのは、何と三週間ぶりくらいだろう。それも、2月はあんなに暖かかったのに。もっとも、このところ寒い日が続いて、ワタシも冬の間の、ストーヴの前で、寝て過ごす日が続いていたから、そう驚くことでもないのだが、ただ、一面の雪景色で、吹雪のように吹き荒れている中に、出て行く気はしなかった。
 ワタシが、そのまま外に出ずに、そさくさと部屋に戻ったのを見て、飼い主が笑っていた。それは仕方のないことだ。いくら分厚い毛皮を着こんでるとはいえ、その下は生の肌だけだ。暖かい部屋の温度に慣れた、ワタシが、急に寒い中に飛び出していけるわけがない。

 それでも、昼前になって、ようやく少し日が差してきて、風も幾らか収まってきたようだったから、急いで外に出てトイレをすませて、戻って来た。それでも、体のあちこちが雪に濡れている。ニャーと鳴いて、飼い主にタオルで体をふいてもらい、ストーヴの傍に駆け寄る。前の手をもみながら、ひとりごとを言う。あーあ、寒い時は、やっぱストーヴの前が一番だで。
 そんなワタシを横目で見て、飼い主が言う。「オマエは人間かっ。」

 『夢を長い間見つめる者は、彼自身の影に似てくる。』(マラバールの諺、マルロー『王道』より)


 「ミャオが寒がるのも、ムリはない。朝ー4度で、日中もマイナスのままだった。雪は、5cm~10cmくらいだが、まだ風が強く、木々の枝葉に積もった雪が地吹雪のように吹き飛ばされている。
 かわいそうなのは、もう七分咲きになっっていた梅の花や、咲き始めたばかりの、ツバキやジンチョウゲなどの花だ。春先のこのくらいの寒さは、厳しい冬を過ごしてきた木々にとっては、大したことでもないだろうが、寒さで花が痛めば、実のつきが悪くなるし、つまり次の世代への、十分な橋渡しができなくなるということだ。

 彼らにとっては、自分が繁り栄えることは、とりもなおさず、自分のためではなく次の世代へ、より大きな可能性を託すためでもあるのだ。植物たちはそうして、過酷な環境に耐えしのんだものだけを、自分たちの、よりたくましい後継者として送り出していったのだ。他の生物たち、動物たちにせよ昆虫たちにせよ同じことだ。
 その限りでは、今では古い学説かもしれないが、ファーブルのすでに埋め込まれている本能ということも理解できる。つまり進化とは、ある種の学習、変化にすぎないのではないのかと。
 それを人間に当てはめることは、難しい。いやむしろ、本能や進化を越えて、学習と破棄を際限なく繰り返してきたのが、人間ではなかったのか。それは、もちろん、今ある肉体的な進化、思考力の発達の意味ではなく、心の問題としてだが・・・。

 さてそこで、そんな人間たちの、文化的創造物の一つである、歌芝居、オペラについて、少し考えてみた。
 というのは、先月に続いて(2月24日の項)、今月もまた、名作オペラの数々がNHK・BSで放映されたからである。
 まず、3月1日から5日までは五日連続で、ニューヨークのメトロポリタン・オペラ公演で、『オルフェオ』(グルック)、『ランメルモールのルチア』(ドニゼッティ)、『蝶々夫人』(プッチーニ)、『夢遊病の女』(ベルリーニ)、『シンデレラ(チェネレントラ)』(ロッシーニ)といった、華々しいライン・アップだった。
 さらに、3月6日には、あのドイツのバイロイト音楽祭からの、ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、堂々4時間45分の大作。そして、3月8日には、イギリスのグラインドボーン音楽祭からの、『妖精の女王』(パーセル)と続いた。
 さらにこれからまだ、『神々の黄昏(たそがれ)』(ワーグナー)、『カヴァレリア・ルスティカーナ』(マスカーニ)、『道化師』(レオンカヴァッロ)が予定されている。

 お願いだから、せめて一週間に一本にしてくれ、と言いたいくらいだった。しかし、そんなことを言っても仕方ないから、せっせと録画してため込んだ。しかし、HD(ハードディスク)にも限度があるから、チェックして、出だしを見て良くなければ早送りをして、所々見て、後は消してしまう。見たいものだけを残しておくためだ。
 その基準は簡単だ。ワタシの好みに合うかどうかだけである。消されてしまったそれぞれのオペラも、決して悪かったわけではない。あくまでも、私がもう一度見たいと思うかどうかだけの、条件だったのだから。以下は、あくまでも、オペラ大ファンでもない私の、偏見による判断である。

 『オルフェオ』、グルック(1714~87)のバロックから古典派へとつながるオペラであり、楽しみにしていたのに、あのレヴァインの指揮で、CDで音として聞くだけなら良かったのだろうが、またも現代的な衣装と、舞台として見るには少しつらい配役もあり、途中早送りして見て、十分には楽しめなかった。
 『ランメルモールのルチア』、もうルチア役のアンナ・ネトレブコというだけで、満足。まだ全部は見ていないが、後でゆっくり見たい。
 『蝶々夫人』、歌手はともかく、場違いな着物姿と、黄色く干からびたような東洋人の子供の人形に、がっかりさせられた。せめて、文楽の人形ならまだしも。
 『夢遊病の女』、現代の舞台であっても、ナタリー・デセイとフアン・ディエゴ・フローレスの組み合わせに、細かい文句などつけられない。さすが、メトのオペラ。これも全部は見ていないし、後で見るつもりだ。
 『シンデレラ』、私の好きなロッシーニのオペラなのに、シンデレラをはじめとして、脇役たちも良かったのに、ただ余りにも王子役が場違いな感じで・・・、一応全部見たのだが。
 『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、オペラの舞台を見るには保守的な私は、ワーグナー帝国の古色蒼然(こしょくそうぜん)たるドイツ・オペラを見たかったのに、時代はすっかり変わってしまっていた。
 ワーグナー家の継承者であるカタリーナ・ワーグナーの演出は、余りにも、自分がワーグナー家の末裔(まつえい)であることに、とらわれすぎているように思えた。反ワーグナーであることが、ワーグナー伝統意識から解き放たれている自分であるかのように。
 現代劇としての舞台上で、大きな張りぼてをかぶった、バッハ、モーツアルト、ベートーヴェン、リスト、ワーグナーなどの一群(12人という数字)が、裸の三人の踊り子(一人は女装の男)と、ふざけじゃれあう様は、このオペラ(楽劇)で、ではなくて、別な新作の舞台でにしてくれと言いたくなった。歌手たちが良かっただけに、残念である。もちろん、途中早送りしながら見ただけだから、正しい評価とは言えないだろうが。


 そして、『妖精の女王』である。途中で休んだものの、一気に、3時間24分の舞台を見てしまった。面白かったし、考えさせられた。オペラであり、舞台劇であり、バレエ劇である、統合された形の舞台として。

 原作は、もちろんあのシェイクスピア(1564~1616)の『夏の夜の夢』である。この有名な喜劇は、他にも、メンデルスゾーン(1809~1847)によって、あの有名な『結婚行進曲』を含む劇音楽『真夏の夜の夢』として、さらにトマ(1811~46)によって、同名のオペラとして、そして題名を変えて、このパーセルのオペラとして、さらにウェーバー(1786~1826)によって『オベロン』というオペラも作られている。

 あらすじは、ギリシアのアテネにある領主が結婚することになり、そのお祝いのために、町の田舎役者たちが集まり一つの劇を演じることになった。そこに二組の若い恋人たちと、森の妖精たちの女王ティターニアに率いられた一団と、その王であるオーベロンが加わって、夏の夜の夢のような、ドタバタ劇のひと時が、繰り広げられることになるのだ。
 さて、このパーセル(1659~95)によるバロック・オペラ『妖精の女王』は、当時、マスクと呼ばれた、独唱やコーラスに器楽合奏などの音楽と、バレエを適宜まじえて構成した、舞台劇であったと言われている。

 ここでは、あの古楽演奏界の名匠クリスティー指揮による、エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団の音楽はもちろん良かったし、ソロ歌手たちもそれぞれに時代に合わせた衣装で出てくるが、演劇の俳優や現代バレエの踊り手たちは、現代的な衣装である。演出家は、あくまでも今の観客たちに見せるためにと、考えたのだろうが。
 しかし、時にはそれが、例えば、ウサギたちの四十八手を尽くした繁殖期の姿を見せる場面など、少しウケを狙った演出過剰なところもあったが、なにより観客たちが、オペラというよりは、楽しい大人のための童話、喜劇として、心から楽しんでいるように見えた。 
 私としては、例えばあのジョゼフ・ペイトンの描いた絵(『オーベロンとティターニアの口げんか』1849年、写真)のように、全員が本来の、当時の時代衣装をまとっていて、その時代の舞曲にならった整然とした踊りをして、それにふさわしい演技であってほしかったのだが、しかし、私は、見ていていつの間にか、舞台の楽しさに引き込まれていたのだ。
 それまで私が、原作を読んで知っていたシェイクスピア『夏の夜の夢』とは、違う、生き生きとした楽しさに、その舞台は満ちあふれていた。私は、もちろん原文ではない訳文で読んでいたのだが、一体その時、何を読み取っていたのだろうか。
 この舞台を見て、新たに目が開かれる思いがした。オペラの歌手たちの歌を楽しみに見た私だったが、いつしか舞台の楽しさに引き込まれていってしまったのだ。
 しかしここで、私は、舞台が面白く新しいものであれば、何でも良いというのではない。むしろ逆に、オペラの本分は歌手たちの歌を聴くことにあり、たとえ舞台や演技力が多少劣ろうとも、私は歌手たちの、見事な歌声を聴きたいと思っている。
 その昔、ヨーロッパ旅行で見たオペラの一つ、それは、確かチェコのプラハで見た、意味もわからないチェコ語による(あらすじは知っていたが)、プッチーニの『ラ・ボエーム』だった。私は、そのプッチーニの音楽に、そして名前も知らない歌手たちの歌声に、思わず涙してしまったのだ。

 あれが私の、オペラへの思いの原点にあるのかもしれない。歌い手だけに目が行く舞台であってほしいという、私の偏屈(へんくつ)な思いは、もうこれからも変わりそうにもない。それを、この年になって、良いか悪いかと考えるのは、もうやめよう・・・。」


 参考文献:『シェイクスピア』(福田恒存訳、世界文学全集、河出書房)、『名曲大辞典』(音楽之友社)、『バロック音楽』(皆川達夫、講談社現代新書)、ウィキペディア他


 


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