ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(145)

2010-03-31 20:27:18 | Weblog



3月31日


 数日前のことだ、朝のトイレに出ていて、家に戻ってきてストーヴの前に行こうとすると、何か見慣れない黒い人影が見えた。
 ゲッ、ワタシの知らない人がいると、眼を一杯に見開いて身構えた。すると、その人間から飼い主の声がする。ワタシは反射的に、ニャーと鳴いたが、信用できない。いつもの飼い主とは違う臭いがするのだ。身構えたままぐるりと回りこむ。
 さらに飼い主の声が聞こえて、しゃがみこんだその顔から、確かに飼い主の臭いがするし、いつものように体をなでられて、少しは落ち着くが、その全身黒ずくめの服には、どうにもなじめない。
 そして飼い主が、ワタシを散歩に誘って外に出る。ワタシもついて行くが、まだまだ飼い主の変な臭いのする、黒ずくめの服装が怖くて、少し離れて歩く。
 誰でも、変に思うだろう。まるでその筋の人のような、いかつい鬼瓦顔の黒ずくめの服装の男と、余り可愛くもないネコが、連れ立って散歩しているのを見れば。

 飼い主はしばらく行ったところで、急ぎ足で先に戻って行ってしまった。それから、クルマがやってきて家の前で止まり、そこから黒い着物を着た人が下りてきて、家の中に入って行った。
 ワタシが家の庭に戻ってきて、そこで座って聴いていると、家の中から、何事か言い続けている声が聞こえ、鐘の音が一つ二つと聞こえた。

 ワタシは納得した。今まで何度もあったことだ。そうか、今日は、あのおばあさんの命日だったのだ。ワタシは、両手を組むことができないまでも、心の中で、手を合わせた。合掌。
 生きとし生けるもの、すべては、同じ所へと帰って行くのだから。



 「この数日間、晴れていたけれども、まだ冬の空気のままで肌寒かったが、今日からようやく、春らしい暖かい空気になってきた。しかし、午後からは雲が広がって、すぐに雨が降りだしてきた。

 家の庭では、さすがに、もう梅の花はすっかり散ってしまったが、今は、ジンチョウゲとツバキの花がいっぱいに咲いている。しかし、母がいつも楽しみにしていたヤマザクラは、長く続いた寒さで、まだ葉さえ開いていない。
 そういえば、いつも鮮やかな色で目を楽しませてくれるあのチューリップも、まだ緑の葉さえ見えていない。先日見た時に、周りにシカのフンが落ちていて、枯葉の下で伸びかけていた葉はもとより、球根の幾つかが掘り返されていた。
 人間たちのささやかな楽しみなどよりは、動物たちの生きることの方が優先されるかもしれないが、こと人間の生活がかかっている場合には、そんな悠長(ゆうちょう)なことなど言っていられない。いつも、駆除と保護の、堂々めぐりである。
 北海道のヒグマやエゾシカ、本州のツキノワグマやイノシシ、シカ、ニホンザル、さらにペットとして飼われていた外来種の動物や魚たちまでもいて、問題は深く、入り組んでいる・・・。

 論語にあるように、『・・・心の欲する所に従いて矩(のり)を超えず。』という心境には、人も動物も、なかなかなれるものではない。
 身近に、たやすく手に入るものがあれば、その欲望のままに、すぐに手を出してしまう。人間を含めた生き物たちの、悲しい性(さが)だ。

 そんなふうにして、私は、またも一つのものを手に入れた。流行りの、デジタル・プレイヤーである。(写真左上)
 それは、”がっきー”とか呼ばれている可愛い娘のテレビ・コマーシャルを最近見て、買う気になったという訳ではない。私は、今更、そんな”がき”に惑わされる年ではない。(ニャオーン、しょうもないオヤジ・ギャグ。)

 私は、今の若者たちのように、日頃から、耳にイヤホーンをつけてまで、音楽を聴くことはないのだけれども、たとえば長い時間をかけての旅行の時とか、慣れない山小屋や宿で眠ることができない時(顔に似合わず、旅先では眠れないタイプなのだ)など、そんな時に、音楽を聞くと(といってもクラッシク音楽がほとんどだが)、心が休まりいつしか眠りにつくこともある。
 さらにもう一つ、あわよくばと一石二鳥をもくろんで、それで英会話の勉強ができればと思ったからでもある。

 私は二回の海外旅行で、合わせて一年間近く、外国に滞在していたことになるが、その時は、いずれも本格的に英語の勉強をしたわけでもなく、いわゆるブロークンの、度胸英語の域を出ないものだった。ましてその後、余り英語を話す機会もないから、今は、さらにひどい状態になっている。
 ところが、この数年ほどの間、ずっと、あの若き日に見た、ヨーロッパ・アルプスにもう一度行かなければと思っているのだ。それも、死ぬまでには、とまで大げさに考えている。

 まして、そんな私の思いに、火に油を注ぎ、そこにカモがネギをしょってくるようなテレビ番組を見たのだ。三日前にNHK・BSで、『世界の名峰 グレートサミッツ』シリーズが始まり、なんとあのマッターホルン(4478m)とモンブラン(4810m)、さらにペルー・アンデスのワスカラン(6768m)までもの、それらの山々への登頂案内、ドキュメンタリー番組が放送されたからだ。
 それぞれ1時間半ほどの番組を、3本見たのだが、まさに息をつめて見るほどに、臨場感にあふれていて良かった。
 もっとも私でも、若い時になら、このガイド付きの登山で、頂上に立てただろうが、体力的にもとうに盛りを過ぎているし、ましてガイドの力に頼って、というスタイルが私にはなじめないから(ケチだからというより、つまりお金を払っての山登りという形に抵抗があるのだ)、今となっては、とてもこれらの山の頂に登ることはできない。

 しかし、どちらかといえば山々の鑑賞派である私は、それらの番組を見て、あのヨーロッパ・アルプスの山々へと、さらに思いをかき立てられたのである。どうしても、行かなければならない。(若い時の4か月に及ぶヨーロッパ旅行で、私はスイスに12日ほどいたのだが、山に居た10日の間、毎日晴れという幸運に恵まれたのだ。)
 だから行くからには、同じように、そんな晴れた日の山の姿を見なければ意味がない。今度もずっと天気が良いなんてことはないだろうから、期間は少なくとも一カ月以上は必要だろうし、滞在費用は、取っておいた葬式費用の一部を切り崩して(冗談)、までしなくても、安宿に泊まれば、物価の高いスイスとはいえ、なんとか安上がりにやれるはずだ。
 さらに、スイスは、ドイツ語やフランス語の国で、単語の幾つかは分かるけれども、話すことはできないが、英語は十分に通じる。長期間の滞在ともなれば、なるべく快適に過ごせるように、またいろんな国の人とも出会うことになるから、ちゃんと英語を話せるように勉強しておいた方が良いのだ。

 そんなさもしい考えで、一石二鳥を狙って買った、デジタル・プレイヤーは、評判のアイポッドではなく、国産メーカーのもの(5450円)にした。
 わずか8cmほどの長さで、重さはイヤホーンをつけても40g足らず、その上FMラジオも付いている。容量は2GBで、音質にもよるが10時間から90時間の録音量があるから、私には十分だ。
 パソコンで使うあのUSBメモリーと大して変わらない大きさに、まず感心したし、何よりも、その音質には、目からウロコの驚きだった。それまでの、今にして思えば大きく重かった、MDプレイヤーと比べてもはるかに良い音だし、ましてアナログ時代のカセット・プレイヤーとは、もう比較できないほどだ。
 知らなかった、こんなに良くなっているとは。もうとっくに使っている人にとっては、何を今さらと思うかもしれないが、いつも時代を後取りする私にとっては、何年遅れかで手にする電子機器の類は、いつも驚きと喜びに満ちあふれているのだ。

 そして、このデジタル・プレイヤーに、英会話練習用のCDと、いつも聴くルネッサンスの宗教音楽などのCD4枚、さらに同じように大好きなバッハの音楽のCD2枚を、とりあえずパソコンから取り込んで、夜寝る時に聴いてみた。

 しかし、久しぶりに聞くその音楽に聴き入ってしまい、かえって眠れなくなってしまった。それは、イングリット・ヘブラーの弾く、バッハの『フランス組曲』である。
 そのCDは、タワーレコードのヴィンテージ・コレクションと名付けられた復刻盤である(2枚組、1500円、写真右上)。私は、このヘブラーの『フランス組曲』を、レコードの時代から良く聴いていた(2枚組LP、輸入盤、4560円、写真)。

 今回はこの、ヘブラーの『フランス組曲』について、少し書いていこうと思っていたのだが、いつものように、どうでもよいことなどを書き連ねて、話が脇道にそれてしまった。次回に、併せて、バッハなどについて書いてみたいと思う。

 話を戻せば、動物と人との対立関係についてだったのだが、こうして文明の利器の誘惑に負けて、購入してばかりいては、結局、少なからずとも、地球上の環境破壊につながる、反エコ生産の行動に、私も加担(かたん)していることになるのだ。
 何と哀しい生き物なのだろう、人間とは・・・。」