ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(138)

2010-03-03 19:31:43 | Weblog



3月3日

  三日前に、一日晴れただけで、後はずっとすっきりしない天気が続いている。気温もそれにつれて、少し下がってきた。
 それまでは、気温の高い日が続き、飼い主はストーヴを消したままだった。しかし、昨日から少し寒くなってきて、その消されたストーヴの前で、ワタシがじっと座っていると、飼い主が不憫(ふびん)に思ったのだろう、またストーヴをつけてくれた。それで、冬の間と同じように、今、ワタシはまたストーヴの前で寝ている。
 あれほど暖かい2月だったのに、3月に入って寒くなるなんて、「春は名のみの風の寒さや・・・」と、まさに『早春賦(そうしゅんふ)』の歌の通りだと思う。それは、昨日いつもの散歩している時に、飼い主が小声で口ずさんでいた歌だった。
 その時、ワタシは聞きなれない、まるで地獄の淵からから聞こえるタヌキの鳴き声のような、変な声がするので、思わず頭上を見上げたのだ。するとそこにワタシが見たのは、遠くの山に視線をやりながら、何かを小声でがなりたてている鬼瓦顔の飼い主の、真面目くさった顔だった。
 ワタシがニャーと鳴くと、飼い主は少し照れながら、歌の名前を教えてくれたのだ。

 まあ、ワタシたちネコも、サカリの時期には歌うけれども、人間の歌は、ワタシたちの歌ほどには強い意味はないのかもしれないが、まあこれは、サカリを過ぎたバカな飼い主の、哀れな歌なのだろう。
 ところで、あの有名な『江差追分』の、「カモ~メ~の~鳴く~ね~に~」と、歌のフシを長くのばして歌う歌い方は、一説によると、番屋暮らしのヤンシュウ(若い漁師)たちが、夜、サカリのネコたちの声に眠れずに、そこで、ネコの声に真似て作った歌だとか。
 そんなふうに、北海道のネコたちが言っていたと、飼い主がとぼけた顔をして話してくれたことがある。ほんまかいな。

 「朝は3度、曇り空のままで、日中でも6度までしか上がらない。このところ、めっきり春めいた陽気だっただけに、肌寒く感じるが、これでいつもの春の初めの気温なのだろう。

 いつもよりは早く、一週間前に咲き始めた家の梅の花が、この肌寒い空の下、それでもいっぱいの蕾(つぼみ)を付けている(写真)。梅の花は、桜の花のようにすぐに散らないで、ずいぶん長くもつから、これからが楽しみである。
 青空の下に咲く梅の花は、香りとともに匂いたつようで、いにしえの人が春の到来を喜び、この梅の花をたたえる歌を読んだ気持ちが良く分かる。奈良時代以前は、やはり春の花といえば、この梅の花だったのだ。

 『人はいさ 心も知らず 故里(ふるさと)は 花ぞ昔の 香に匂いける』(『古今集』 紀貫之)

 香りとともにある梅の花と、あでやかに満面に咲き誇る桜の花。昔と今と。

 さて、思えば、2月18日の項で、ロッシーニのオペラ『ランスへの旅』のミラノ・スカラ座公演の写真を載せて、そのことについて書くつもりだったのだが、その時は、映画『オリエント急行殺人事件』の話になってしまい、その次は山の話、そして2月24日の項で、やっとこのオペラについて幾らか書くことができたが、前回は、話がそれてヘンデルのオペラ・アリアの方に行ってしまい、最初に私が意図していた所からは、すっかり離れてしまった。

 結論から先に言えば、実はこのオペラ『ランスへの旅』を見て、すぐに思ったのは、ロッシーニの母国のイタリア・オペラについてではなく、その後、彼が住むことにもなった、このオペラの舞台フランスについてでもなく、もっと広く、根柢の所で同じ文化意識を持つ、ヨーロッパという地域全体のことについてである。
 つまり、このオペラに出てくる人々、この宿”金の百合(ゆり)亭”に集まった人々は、実は、ヨーロッパ各地から集まってきた人々でもあったのだ。

 この”金の百合亭”のマダムからして、チロル出身のオーストリア人であり、以下の貴族や成金者たちは、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ロシア、ポーランドから来ていて、さらにコリンナ(イタリアの桂冠詩人)とともに来たギリシアの娘もいるという具合だから、誰が見ても、ヨーロッパを意識しての配役であることが分かる。(そしてそれはあの『オリエント急行殺人事件』の配役についても同じことが言えるのだ。)

 ロッシーニは、ルイジ・パロッキの台本に合わせて、フランスのシャルル10世の戴冠(たいかん)式のために、祝賀カンタータ・オペラとして作曲したのであるが、そこには、単なるフランス一国のお祝いとしてではなく、ヨーロッパ全体の平和を願う気持ちも込められていたのだ。

 このシャルル10世が即位したのは1824年(~1830年まで在位)であるが、当時フランスは大変革の時代にあった。つまり、35年前の1789年にフランス大革命がおこり、ルイ16世とマリー・アントワネットは断頭台の露と消え、第一共和政の後、クーデターでナポレオンが現れて皇帝の地位につき、やがてヨーロッパじゅうを席巻(せっけん)し、占領していくことになる。
 しかし、ナポレオンはロシア遠征に失敗し、戦いに敗れて退位し、そこで王政復古になり、ルイ18世が国王になる(1814年)。そして、ナポレオン占領の混乱の後の、ヨーロッパに関しての全体会議がウィーンで開かれる。その模様は、あの有名な映画『会議は踊る』(1934年)の中に、皮肉をこめて描かれている。
 そして、その束の間の平穏の中、ルイ18世(在位1814年~1824年)から王位を受け継いだのが、ここでその戴冠式が話題になっているシャルル10世なのである。しかし、1830年には、あの7月革命が起きて、シャルル10世は退位して、ルイ・フィリップが国王になるが、1848年には早くも2月革命が起きて、第二共和制となり、やがてナポレオン3世の時代になっていくのだ。

 そんな、時代の荒波が押し寄せる中で、彼らは、再び訪れた平和を楽しむべく、祝賀パーティーを開くのだ。それは、この平穏な時代が長くは続かないことを、彼らが知っていたからなのか。
 ヨーロッパは、その後様々の危険な要素をはらみながら、ついに1914年に第一次世界大戦に、そして1939年には、第二次世界大戦へと突入していくのだ。

 そういった悲惨な戦争の合間のことであり、彼らの平和こそが大切なのだという思いは、この楽天的に思えるオペラの中に、そこここに見え隠れしている。それぞれ、自国の国歌を歌いながらも、皆が一緒に合唱する。民族は違えど、ヨーロッパは一つだという思いがあるからだ。(フランス国歌として有名なあの『ラ・マルセイェーズ』は、共和制の国歌であり、王政復古で廃止されていて、ここでは歌われずに別な歌になっている。)

 そんな彼らの思いは、ヨーロッパの人々に共通して、その根底にあるものなのに違いない。ギリシア・ローマを父として、キリスト教を母として、互いに栄えてきた、一つの共同文化圏なのだから。(もちろん、その繁栄は、アジア・アフリカ・アメリカ大陸などへの侵略、帝国主義的植民地政策の上に成り立っていたのだが。)
 そして、帝国主義の終焉(しゅうえん)後も、その利益と文化を守るための、共同地域としての思いは、第二次大戦後には加速されて、1950年には、欧州石炭鉄鋼共同体に、そして1957年には欧州経済共同体に発展し、1993年からはEU(欧州連合)として発足し、現在は単一通貨のユーロを発行して、加盟国を増やし続けているのは、承知の通りである。

 私がヨーロッパを旅行したのは、まだ共産圏諸国があったころだから、ずいぶん昔のことになる。当時、その共産国を含むヨーロッパを旅して回って、私が感じたのは、確かに、アジア・アフリカ・南北アメリカなどとは違う、何か大元の所でつながっているヨーロッパの姿であった。
 国境があり、民族が違い、話す言葉が違っていても、そこは地続きの大陸であり、全く異なった国だという思いを強く感じることはなかった。(むしろ、当時の共産圏と西側の国々との差、その断絶の方が大きかった。)
 日本人は、自国が海によって明確に区切られているから、自国と外国の差がはっきりとわかるけれども、ヨーロッパの基本は、貴族領主たちの領地の境界であり、そのモザイク模様の連合が国家を形成しているのである。
 幾多の革命によって、ヨーロッパの貴族階級は消滅したかに見えるが、いまだに、その存在感と伝統は厳然としてあるし、決してなくなることはないだろう。そこのことが、ヨーロッパをヨーロッパたらしめている要因の一つでもあるのだが。

 こうして、ヨーロッパのことについて書きはじめるときりがないし、例えば、当時のヨーロッパの中心であったパリについて、そのことを実感してみたいと思ったのが、その時の私の旅の目的でもあったから、他のヨーロッパの都市との比較をまじえて、ここでももう一度考えてみたかった。
 さらに当初は、現代のヨーロッパに至る道のりを、あのアンドレ・マルロー(1901~1976)や、レヴィ=ストロース(1908~2009)たちの行動とともに、考えてみたい気もしたが、やはりど素人(しろうと)の私ごときには、荷が重すぎるし、かといっていい加減なことを書くわけにもいかない。
 『ぐうたらに生きて、だらしなく横になって、尻でもかきながらテレビを見ている、バカおやじのすることではない、そんなことは、えらい先生方にまかせて置けばよい』という、ミャオの声。

 その通りなのだ。ここで私ははっと目が覚める。ともかくは、オペラ『ランスへの旅』(1825年)からの話に戻ろう。
 このオペラを見て、その時私が思ったのは、あのロッシーニ(1792~1868)の生きた時代には(おそらくはもっと前の時代から)、当時の、争いに終始していた時代背景を考え併せてみても、人々の心には、ヨーロッパを平和に、そして一つにという思いがあったに違いないということだ。そのことは、たまたま、それと相前後して見た、アガサ・クリスティー原作(1934年)の映画『オリエント急行殺人事件』への感想が重なってのものだったが。
 ともかくそれらのことは、私のヨーロッパに対する思いから来たものに違いなかった。

 日本という国そのものが、独自の優れた文化を有しながら、一方では、近世以降、ヨーロッパ文化の影響をも強く受けてきた。(今の日本では、目に余りあるほどのアメリカ文化の氾濫だが)。今の私とて同じことで、好みの音楽、映画、文学、絵画など、その多くがヨーロッパ由来のものなのだ。
 今でも、日々、日本の伝統文化(伝統芸能、古典文学、日本絵画、寺社仏閣など)の系譜をたどり学びながらも、ヨーロッパ文化にもひかれるのだ。それは、私が好きな日本の山々に登りながらも、今一度、ヨーロッパ・アルプスにも登りたいという気持ちに似ている。
 初恋の同級生の娘への3年間の思い、そしてノルウェーで三日間一緒だったあのアイルランド娘。すべては、若い時のままに過ぎ去り、年をとってゆく私だけが残る・・・。」

 『 流れる水のように恋もまた死んでゆく 命ばかりが長く 希望ばかりが大きい 日も暮れよ 鐘も鳴れ 月日は流れ わたしは残る 』 

 (『アポリネール詩集 堀口大学訳 新潮文庫)

 (参考文献) 『古典名歌集』(古今集、河出書房新社)、『ランスへの旅』(解説本 石井宏他 ポリドール社)、『私のヨーロッパ』(犬養道子 新潮選書) 『パリ物語』(宝木範義 新潮選書)他。