3月14日
どうやら、寒い日々は過ぎたようだ。昨日、今日と、天気はすっきりしないけれど、あの雪の降った後の四日前くらいから、10度を超える暖かい日々が続いている。
ワタシも動き回りたくなって、この二日間は、夜中に外に出ていく。家の周りにやって来た他のネコたちと、鳴き交わすためだ。ワタシはもう年だし、その上、子供の時に、最初の飼い主であった、あの酒飲みおばさんから、病院に連れて行かれて、そこで手術を受けているから、いわゆるオスとメスの問題にはならないはずなのだが、時期になるとこうして、他のオス猫がやってくるのだ。
今までの顔なじみの、マイケルがいなくなった後、先日も来ていた、あのヒマラヤンふうの、若いネコちゃんが相手である。しかし、飼い主から、くれぐれも注意するように言われている。二年前の、例の事件があったからだ(’08.4.14~4.23の項)。
ワタシとしては、そんな刃傷沙汰(にんじょうざた)になる前に、引き下がりたいのだが、この年になっても、まだ自分のどこにそんな気持ちがあったのだろうかと思うほどの、激しいネコ魂があって、どうしても外に出て行き、鳴き交わしの相手をしたくなるのだ。
その夜のために、今は眠たいのだ。今日の昼間、飼い主と一緒に少し散歩に出た後は、再びコタツの中に潜り込んで、ぐっすりと寝ている。夕方、サカナをもらって、元気になってからの、夜の活動のために。
「四日前に雪が降って、10cmほど積もったのだが、その翌日の朝には、また積もっていて、20cmほどの積雪になった。しかし天気は回復して晴れている。
この機を逃さずに、山登りに行きたかった。いつも言うことだが、九州の山では、雪の降った翌日だけが、雪山を楽しめる時なのだ。
空は晴れているが、遠くに見える山々には、少し雲がかかっている。しばらく待つことにした。しかし、なかなか雲はとれない。前回の登山の時もそうだった(2月21日の項)から、予報通りに、やがて雲も取れて晴れてくれるはずだ。
しかし、九重の山を歩き回るにはもう遅すぎる。それなら、簡単に登れる山にしようと思った。幸い、九重から、由布岳、鶴見岳にかけては、その間に、手頃な山が幾つもある。
鶴見岳周辺については、その前回の登山の時に書いたけれど、この由布岳の近くには、南に倉木山(くらきやま、1160m)、城ヶ岳(1168m)、西に福万山(1236m)、そして九重との間にも、花牟礼山(はなむれやま、1170m)、崩平山(くえのひらやま、1288m)などがあって、いずれも九重や由布岳を望むことのできる、見晴らしの良い草地の頂上がある。
ところで、家を出て、山に向かう途中の道では、雪のために動けなくなった若い人たちの車が、何台も路肩に停まっていた。
その辺りから分かれて、牧場への狭い道を上がって行く、私のクルマは、冬の間からずっとスタッドレッス・タイヤをつけているから、山道の20cmほどの雪でも何とか登って行けたのだが、普通のタイヤでは到底無理である。
この九州の中央部の、阿蘇・九重・由布などの山間部の一帯は、あの四国の中央部と同じように、南国とはいえども度々雪が積もり、冬の季節には、冬タイヤもしくはチェーンが必要なのだ、雪のない時の方が多いとはいえ。
さて、家を出たのが11時過ぎと遅く、倉木山の登山口に着いた時には、もうお昼に近かった。クルマを停めて、牧場わきの道を登っていく。晴れた青空の下、もう雪が溶けだしているが、それでも10cmほどはあるだろう。
すぐに、尾根の分岐点に着く、左は急な尾根の登りであり、右は山腹をぐるりと巡るコースになる。もちろん、そんなに知られた山でもないから、足跡一つ付いていない。
それ以上に嬉しかったのは、辺りの景観である。周りの木々のすべてに、(雪が吹き付けてできた)樹氷や(細かい霧粒による)霧氷、そして(水滴による透明の)雨氷が付いていて、青空の下に映えて、何ときれいなことか。ここは山の北面だから、辺り一面にまだ十分に日差しが当たっていなくて、南面ならすぐに溶け落ちてしまう雪や氷が、まだ解けずに残ってくれていたのだ。
ゆるやかな山腹沿いの道をたどっていく。ああ来て良かった、と思わず言ってしまうほどの、素晴らしい雪の道だった(写真)。雪は10~20cmで、北側斜面の冷え冷えした空気の中、すべての木々に雪や氷の花が咲いているのだ。
それは、前回に書いたあの『夏の夜の夢』の、冬の季節の情景のようで、まるで”妖精たちの国”へとたどる道のようにも思えた。何と幸せな、ひと時の“冬の日の夢”なのだろう・・・。
しかし、それは先へと長く続いていくと、もう喜びではなくなってきた。つまり、写真のような道ばかりではないからだ。
両側から、木々の枝などが、雪の重みで傾き曲がっては、道をふさいでいた。その度ごとに腰をかがめて、あるいは、ぐるりと回りこんでという繰り返しになってきたからだ。さらに、枝に触れては、上から雪や氷jがばらばらと落ちかかるのだ。
それでも、頭上を振り仰げば、青空を背景に、入り組んだ木々の枝模様に、雪や氷がキラキラと光っている。
ようやく、その樹林帯の山腹の道を抜け、見晴らしが開けてきて、急な頂上への斜面の登って行く。途中で、写真をとるために何度も立ち止まっていたから、結局2時間近くもかかって頂上に着いた。
しかし、先ほどまで由布岳(1584m)にかかっていた雲も、今は取れて、見事な雪の双耳峰(そうじほう)の姿を見せていた。ここは、絶好の由布岳の展望台なのだ。
岩の上に腰を下して、周りの展望を楽しんだ。正面の由布岳の隣には、鶴見岳(1375m)の山稜が連なっている。南に少しかすんで、九重連山があり、その左にはさらにかすんで、ようやく祖母・傾山群が見えていた。
下りは、先ほどの分岐の急斜面コースをたどる。しかし、道は同じように、いやさらにひどく、両側のササやススキに積もった雪が道をふさぎ、膝上のラッセル状態になり、ズボンはもとより、スパッツも効果なく、靴の中までびっしょりと濡れてしまった。その上どこが道かわからないほどの、滑りやすい急斜面の下りだ。
わずか10cmほどしか積もっていない、柔らかな雪は、すぐにめくれてあがり、下の湿った地肌がむき出しになる。ようやくのことで分岐点まで下りてきた。そして、泥だらけの姿のまま、牧場の傍に出た。暖かい光が降りそそいでいて、誰もいなかった。
この山に登ったは、これで三度目なのだが、その度ごとに道が分かりにくくなってきているし、人に勧められたものではない。もうこの時期に、同じコースをたどる気にはならないほどだった。
しかし、何よりもこの山は展望が良いし、今回は北斜面の霧氷群が素晴らしかったし、わずか、4時間の雪山ハイキングだったが、行って良かったと思う。恐らく、もう九州の雪山シーズンは、これで終わりだろうし、そして、春山の季節になっていくのだ。
しかし、あの北海道の山では、5月までは、まだ雪山の季節が続くのだ。ああ、日高の山々、大雪の山々・・・。
前々回(3月7日の項で)、少しふれたダンテの『神曲』についてだが、二日前、丁度タイミング良く、NHK教育でその舞台劇が放映された。
あのフランスの、”アヴィニョン演劇祭”におけるもので、『地獄篇』と、『煉獄編』『天国編』に分けての舞台だった。このアヴィニョンは、歴史上の”アヴィニョンの捕囚”として有名な町で、1309年から1377年の間(ちなみにダンテが生きたのは1265年~1321年)、一時的に法王庁が置かれていて、その旧法王庁の建物の広い前庭での、野外公演だったのだ。
イタリア現代劇の鬼才といわれている、ロメオ・カステルッチ演出による、ソチエタス・ラファエロ・サンツィオ(劇団)による現代劇の舞台は、後で、彼自身が説明しているように、人間関係にそのテーマが置かれていて、私の思いとは別なところにあった。もちろん、この劇には、ちゃんと『神曲』に着想を得てという前置きがあったのだが。
何も、私は、ダンテの意図したような、現世の罪による地獄での罰という舞台の具現化を望んだのではない。それは、現代社会においては、歴史上のかつて信じられていた宗教的な倫理観でしかないからだ。
ただ、現代の、宗教感が薄れゆき、個人の自由の権利が広がる中で、罪と罰は、何なのだろうか・・・といった、問いかけなどを、私が、勝手に期待していただけなのだ。
しかしそれ以前に、残念ながら、私には、その舞台から感じ取る能力にも、知識にも欠けていたのだ。正直に言えば、良く分からなかったのだ。哀しいかな、もう今の時代が良く見えない、年寄りになりつつあるのだろうか・・・。
むしろ、その舞台を見ながら思い出していたのは、あのアンドレイ・タルコフスキー(1932~1986)の映画、『ノスタルジア(1983年)』と、『サクリファイス(1986年)』であった。」