ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(98)

2009-04-08 17:48:38 | Weblog



4月8日
 すっきりと晴れ渡り、20度近くもある暖かい日が続いている。一週間前に、雪が降ったのが信じられないくらいだ。
 こうした、ネコ日和(びより)の良い日には、ワタシは家から少し離れて、といっても飼い主の動静は分かるくらいの所にいて、日向ぼっこをしたり、うたた寝をしたりして過ごす。
 お日様の加減で、大体の時間が分かるから、そろそろだなと、体を起こして、家に帰る。ニャーオ、ニャーオと鳴いて、飼い主に知らせて、サカナを催促する。
 しっかり、サカナを食べた後、顔の周りの毛づくろいをして、飼い主を見て、ニャーゴと鳴く。そして一緒に散歩して回り、家に戻る。毎日は、その繰り返しで良いのだ。あーニャン、ニャンと。

 「家のヤマザクラが、ようやく満開になった。全く、毎年のことながら、青空を背景にして、鮮やかな一幅の絵を見るようだ。その下のシャクナゲの木も、桃色の大きな花を咲かせ始めた。
 ウメの木は、花もすっかり終わり、小さな緑の葉が開き始めた。重たげな赤い椿の花が、幾つも地面に落ちている。春は、すこしづつ動いているのだ。

 さて、前回は、岩佐又兵衛勝以(いわさまたべえ・かつもち、1578~1650)の『山中常盤(やまなかときわ)物語絵巻』について、幾つかの資料をもとに、ささやかな私見を述べてみたのだが、まだまだ、この又兵衛については、書きたいことがいろいろとある。
 まず、彼の残した画業の中でも、その膨大な量に圧倒される絵巻物については、前に書いたように(3月31日の項)、『堀江物語絵巻』、『上瑠璃(じょうるり)物語絵巻』、『小栗判官(おぐりはんがん)物語絵巻』などがあるが、これらもまた、『山中常盤』と同じように、当時の仇討物語の人形浄瑠璃芝居をもとにしたものであり、いずれも、あの『新日曜美術館・岩佐又兵衛』の番組のサブ・タイトルどおりに、まさに“驚異の極彩絵巻”と呼ぶにふさわしいものばかりである。
 それは、印刷技術もなく、ましては映写フィルムもなかった当時の人々にとっては、他では見ることのできない、唯一のオール・カラーの、連続して完結する、物語絵巻だったのだ。
 ただ、そこに描かれた、金箔に赤や緑の原色の色合いは、現代人の我々の目から見ると、ややけばけばしく、なじみにくい気もする。しかし逆にいえば、我々は、日常的に余りにも、あふれる色彩の中にいて、色彩の刺激に慣れ過ぎていて、さらにはその配色にさえうるさくなっている、とも言えるのだが。

 次に、又兵衛の描く美人美男図には、特徴的な、ぽっちゃりした頬に長い顎(あご)の、いわゆる”豊頬長頤”(ほうきょうちょうい)と呼ばれる顔の描き方がある。(前回の常盤の絵を参照)
 さかのぼれば、それ以前に描かれた平安、鎌倉時代の大和絵や絵巻物(『源氏物語絵巻』など)に特徴的に見られる、あの”引目鉤鼻”(ひきめかぎばな、下ぶくれの顔に細い眼と”く”の字型の鼻)の発展形と見られなくもない。
 しかし、たとえば名品といわれている、『伊勢物語・梓弓図』や『楊貴妃(ようきひ)図』などは、これもまた、現代人の我々から見れば、余りにも下あごの部分が誇張され、長すぎて、とても美男美女には見えない。悪く言えば、近頃はやりの、趣味の悪い女装の男性に見えてしまうほどである。 


 もちろん、又兵衛の描く人々の顔が、すべてこの”豊頬長頤”で描かれているわけではない。一般人の男女の姿などは、無理な誇張表現なども少なくて、むしろそれぞれに表情豊かに、生き生きと描かれているのだ。
 まして、江戸に出てきて、つとにその名声は上がり、その名を”浮世又兵衛”と、呼びはやされ、後世には、浮世絵の元祖とさえいわれるようになった名絵師の描く絵が、とてもあの不自然な“豊頬長頤”のままで終わったとは思えない。
 つまり、又兵衛の死後、浮世絵が、菱川師宣(もろのぶ)、鈴木春信(はるのぶ)、勝川春章(しゅんしょう)へと発展していく中で、あの“豊頬長頤”の絵のままでは、余りにもつながりがない。むしろ断絶しているとさえ思われるのだ。
 しかし、ここに、その間をつなげるような、又兵衛作といわれる一点がある。前にも(3月31日の項)、少しふれた、『湯女図』(写真、MOA美術館蔵)である。
 当時、町中に作られ始めていた湯屋(ゆうや、銭湯)で、客の垢(あか)すりをしたり、時には酒色の相手なども務めていた、といわれる湯女たちの姿である。
 まず気づくのは、彼女たちそれぞれの、バランスの取れた体形と立ち姿の美しさである。それはもう、殆んど現代の女性たちの姿と変わらない。昔の日本人の体形と言われた、胴長短足の面影はどこにもない。
 今までの、“豊頬長頤”の又兵衛の絵にはなかった、現代の我々が見ても違和感のない、確かな構図による美人画である。
 彼女たちそれぞれが、描き分けられていて、顔に白粉を塗ったままの者も塗っていない者も、一人一人に顔の表情も違う。さらに、それぞれのヘアー・スタイルも微妙に違うし、何よりも彼女たちの、着物の柄模様が素晴らしい。あの極彩色の又兵衛とは思えない、品のよさである。
 しかし、あの有名な又兵衛研究家の辻惟雄氏は、『岩佐又兵衛(文春新書)』の中で、この絵を、『私娼の生命力を賛美する反美人画』だと書いておられるけれども、私には、とても反美人画には見えない。老齢の又兵衛が、当時の流行(はや)りの女たちがそぞろ歩く姿を見て、美しいと思って、描いた絵ではないのかと思う。
 意味合いは違うけれども、前に書いた(3月7日の項)、一休宗純和尚が、晩年、森侍女との愛の日々に夢中になったように、この絵は、又兵衛が晩年になって、今を生きる若い女たちを見て、憧れに似た思いで、描いた絵ではないのかと。あのルノワールが、晩年に至るまで、若い女たちの、満ち溢れるような肉体に拘泥(こうでい)したように。

 私は未読だけれども、この絵について詳しく書かれた、『湯女図―視線のドラマ』(佐藤康宏、平凡社)という、優れた本があるとのことである。
 その中で、この絵は二曲一双の屏風絵で、失われたもう一つの絵には、対立するように吉原の遊女たちの姿が描かれていて、右端の女(彼女だけ地味な縞柄の着物)だけは、その吉原の仲間の一人ではないか、と推測されるとのことだ。
 なるほどと思うと同時に、失われたその片方の屏風が出てこないものかとも思う。絵画の由来は、それぞれに深いのだ。

 ともかく、この絵が又兵衛作だとすれば、浮世又兵衛の呼び名も納得できるし、江戸に出てきてからの作品の数が少ないことからいっても、風俗画ゆえに、落款(らっかん)を押していない又兵衛の絵が、実は幾つもあるのではないかとさえ思う。
 画家は、その作風が、若いころからあまり変わらない者もいるが、むしろ青年時代、中高年、晩年へと、その作風を変える人たちも多いのである。

 数回にわたって、岩佐又兵衛について書いてきたけれども、まだ書き足りない気もする。しかしこのあたりで、あくまでも私見によるだけの岩佐又兵衛の話は、終わりにすることにしよう。
 ただ、私は、確かに曽我蕭白(そがしょうはく)や河鍋暁斎(かわなべぎょうさい)などは、まさに”奇想の画家”たちにふさわしいとは思うけれども、岩佐又兵衛は、”奇想の画家”の系譜に位置する一人だとは思わない。
 ただ彼は、過酷な運命の下に生まれ、過去と現実のはざまで苦しみながらも、生き抜いて、その思いを込めて、忠実に絵を描き続けた、一人の絵師だったのだと思う。」

 (参照文献等は、3月31日の項に同じ。)
 


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