ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(99)

2009-04-11 18:49:52 | Weblog



4月11日
 もう一週間、これほど長く、快晴の日が続いたのは、ワタシが生まれて、14年もの間、他に記憶がない。
 気温は毎日、20度前後まで上がり、朝や夕方は、まだ少し冷えるが、日中は、もう暑くて、日向は避けたいくらいだ。つい、この前までは、暖かい日だまりを探していたというのに。
 他のネコたちも来なくなったし、エサ場の鳥たちも少なくなった。夕方前に、飼い主からサカナをもらい、その後、一緒に散歩に出かけるまで、ワタシはぐうたらに寝て過ごす。
 年寄りネコだもの、静かなところで、のんびりと暮すのが、一番なのだ。飼い主は、その年の割には、あちこち出かけたり、庭で仕事をしたりと、まあご苦労様だこと。

 「暖かすぎるほどの、春の日の中で、満開のヤマザクラの花が、風もないのに、はらはらと散り落ちている。
 『ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく花のちるらむ』(紀友則、『古今集』より)
 花といえば桜の花であった、そのいにしえの人たちの思いは、今の時代に生きる、私の心にも伝わってくる。私たちが、日本人であることを、知らないままに受け継いできた、小さな、かそけき声の響きを、この歌の中に、聴く思いがするのだ。

 前回まで、安土桃山の時代から、江戸時代初めに生きた大和絵師、岩佐又兵衛勝以(いわさまたべえかつもち、1578~1650)について書いてきたのだが、その後、この日本人の心を映す、一つの鏡でもある日本の絵画は、どのように、変化発展していったのだろうか。


 岩佐又兵衛の絵には、一つには狩野派や土佐派に代表される障壁画(しょうへきが、屏風、ふすま絵など)の技法から学んだものが、さらに平安時代からの絵巻物の伝統を受け継いだもの、さらには室町時代からの水墨画の要素も含まれている。
 平安時代の唐絵から、大和絵へと変化を遂げた、狩野永徳(えいとく)や狩野探幽(たんゆう)に代表される、障壁画は、その後、俵谷宗達(そうたつ)や尾形光琳(こうりん)に受け継がれ、日本画の代表的な流れの一つになる。

 一方、江戸時代初めに生まれ、その後の二百年を越えて隆盛をみた浮世絵は、その始まりを、”浮世又兵衛”の呼び名を与えられた岩佐又兵衛とする考え方もある。
 しかし、一般的には、後に浮世絵の諸流に分かれたその大元の絵師として、『見返り美人』の絵で有名な、あの菱川師宣(ひしかわもろのぶ、1615~1694)の名があげられている。
 その浮世絵は、鈴木晴信(はるのぶ、1725~1770)、勝川春章(しゅんしょう、1726~1792)、鳥居清長(きよなが、1752~1815)から、ついに、あの浮世絵の代名詞ともなった喜多川歌麿(うたまろ、1753~1806)、役者大首絵(おおくびえ)の東洲斎写楽(しゃらく、~1794前後~)、『富嶽三十六景』の葛飾北斎(ほくさい、1760~1849)、歌川豊国(とよくに、1769~1825)、『東海道五拾三次』の安藤(歌川)広重(ひろしげ、1797~1858)へと続いて、絶頂を迎えて、明治時代の文明開化の幕開きとともに、終息していくことになる。

 肉筆による屏風、ふすま絵が、いわゆる高位の武家や寺社、そして富裕な商人たちだけのものであったのに比べて、浮世絵は、版画技術の発達によって、大量に印刷され、だれでも安く手に入れて楽しむことができる、まさに庶民のためのポスター絵であったのだ。
 逆にいえば、数多くの人たちに支持された大衆芸術であったがゆえに、絵画芸術としての限界もあった。それは、西洋絵画に比べて、厳密な写実性には欠け、陰影がなく、色調が単純であるという欠点を、そう簡単には克服できなかったからである。
 しかしその反面、明確な図柄と紋様化により、さらに大胆な構図を用いて、誰にでもわかりやすく、時代の求めに応じて、描くことができたのだ。

 一方、遠く離れたヨーロッパでは、ルネッサンスからバロックをへて、新古典、ロマン派へと、その写実の表現方法は、すでに遠近法による三次元的手法へと、きわめ尽くされていた。それゆえに、印象派の時代の西洋絵画にとって、日本の浮世絵の、二次元的平面での、大胆な構図と意匠化こそが、新たな時代を切り開く手掛かりになったのだ。
 極端にいえば、ゴッホ、マネ、セザンヌだけでなく、フォービズム、キュビズムなどの現代の抽象画につながるものを、その一因を、日本の浮世絵が与えたということにもなるのだ。

 しかし物事はそう単純ではない。浮世絵が、単純な線と色彩の木版画であったことが、大量生産され、一般化された利点を持つと共に、限界として、大衆迎合的な芸術に終わってしまったことをも意味している。つまり、それは、写真の出現によって、まさにあっけなく消え去ったからである。
 浮世絵の大衆化は、一方では、絵画史の流れから見れば、同時代の人には理解されずとも、人間の内面に深く迫る絵画芸術へと、昇華していくような作品の萌芽(ほうが)を、阻むことになったとも言えるのではないだろうか。

 もちろん、私は浮世絵の芸術性をを否定するつもりなど、全くない。あくまでも、西洋絵画との比較で、考えたまでのことだ。むしろ、浮世絵の作品を見るたびに、その洗練された線描画と、考えつくされた構図、紋様、色づかいに、見入ってしまい、いつしか、日本人の心を、桜の花びらの心を、思ってしまうのだ。
 それらの浮世絵の中で、私が特筆したいものは、勝川春章の描いた数少ない肉筆浮世絵の、『雪月花美人三幅対』(各93cm×32・2cm)と『婦女風俗十二ヶ月図』(各115cm×25,7cm)である。
 特に、『十二ヶ月図』の方は、一月と二月の絵が欠けていて、三月から十二月までの、9点だけであるが、いずれも素晴らしい作品である。(写真は、『三月 蹴鞠(けまり)』の一部分、MOA美術館蔵。)
 この春章の描く、理想化された、品のある日本女性の美しさは、後年さらに、昭和初期の美人画の典型として、あの上村松園(うえむらしょうえん、1875~1949)や鏑木清方(かぶらききよかた、1878~1972)へと受け継がれていくのだ。
 
 ところで、私は、その昔の若いころの、ヨーロッパ旅行の時に、確かプラハでだったと思うが、12ヵ月のセットになった、ミュシャのポストカードを、買ってしまった。まだまだ、長期間の旅行の途中だったので、余計なものは買うまいと心に決めていたのに、どうしても手に入れたくなったのだ。
 アルフォンス・ミュシャ(1860~1939)は、チェコスロヴァキア出身の、アール・ヌーヴォーを代表する画家の一人で、リトグラフ版画による、ポスターや挿絵(さしえ)画家として活躍した。
 今、私の手元にある、その12枚のカードを取り出して見て、次いで、勝川春章の『十二ヶ月図』を見る。ヨーロッパと日本の絵、いずれも素晴らしい。和の心、洋の心・・・。

 ・・・ニャオ、ニャーオ。おお、ミャオか。オマエは、とても美人ネコとはいえないけれど、しっかりと、和の心は持っているからな。
 オレがこうして、絵を見ているのは、まあ、かなわぬことだからこそ、せめて絵を見ていたいだけなんだがね。」


参考文献 『浮世絵大系・全17巻』(集英社)、『日本の名画・全26巻』(中央公論社)、ウィキペディア他のウェブサイト。