ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(86)

2009-02-25 16:05:26 | Weblog


 2月25日


 天気予報通りに、三日間、天気の悪い日が続いている。昨日、今日と、シトシトと雨が降り続いていたが、午後になって、ようやく雨も上がってきた。
 気温は、2月だというのに、朝から10度近くもあって、その後気温は上がらなかったのだが。ともかく、寒いというほどではないのだが、飼い主につけてもらった小さな電気ストーヴの前で、ずっと寝ている。
 そういえば、前に飼い主から聞いたことがあるが、「雨の日のネコはとことん眠い」(PHP文庫)という本があって、「雨の中では、ネズミも鳥も出てこないし、腹を空かして動きまわるより、寝ていたほうが、ネコたちにとっては得策なのだ。・・・」、というようなことが書いてあったとのことだが、確かにそれはある。
 さらに、ネコは、雨に濡れるのがキライだとも言われているが、それも、人間たちと一緒に、家の中で暮らすようになったからだ。本来は、ヤマネコたちのように、雨の中でも変わりなく行動していたのだ。半年の間、飼い主がいなくなり、半ノラになってしまうワタシが、そうであるように。
 つまり、ワタシたちネコが、雨の降る日には、ぐうたらになって寝てばかりいるのは、環境に応じて、進化とは言わないが、適応してきたという証拠なのだ。
 ともかく、雨が上がれば、いつものように飼い主を促して、散歩に出かけることにしよう。


 「2月22日は、何と、『猫の日』だったそうで。どおりで、YouTubeには、ネコたちの動画サイトが、ずらりと並んでいたわけだ。
 そのうちの何本かを見てみたが、最もダイアル・アップ接続のため、切れ切れで、時間も、3、4倍かかるありさまだが、ともかく、いずれのネコちゃんたちも、立派な種類のおネコ様たちばかりで、上品な可愛いらしさにあふれていた。
 それにひきかえ、今、だらしなく寝ている家のミャオは、シャム猫の母親からの色合いを少しとどめているだけで、殆どは日本ノラネコの父親の血筋を色濃くひいている。
 そのうえ、もう年で、動きも緩慢(かんまん)になってきたし、瞼(まぶた)のあたりが、すっかりおばあさんネコに見える。とても動画サイトなんかに、出せたものではない。
 とはいっても、ミャオは、若いころは、うるさく鳴いて、顔も神経質なキツネ顔で、それほど可愛いネコではなかったのに、さまざまな辛い経験を経て(’08.2.10~11、4.14~23の項など)、今では穏やかなタヌキ顔になったし、無駄鳴きはしないし、無駄な行動もしない。
 長い間の、単独行動に慣れたミャオが、ただ私とだけは、いつも一緒に、行動を共にしようとしている。今、目の前で、タヌキのように、ぐうたらに眠り込んでいるミャオだが、私にはオマエが、一番だ。


 さて、冒頭の写真は、誰でも一度は見たことのある、あの有名な『一休和尚像』(15世紀、東京国立博物館蔵、重要文化財)である。
 この絵の作者は、墨斎(ぼくさい)筆とされているが、もう一点の、同じ上半身で全身坐像を描いた、京田辺の酬恩庵(しゅうおんあん)一休寺にある、曽我蛇足(そがのだそく)筆とされる絵(こちらも重要文化財)とともに、はっきりと作者が確定している訳ではない。
 それにしても、とても数百年も前に書かれた絵とは思えない、精緻なデッサンによる表現で、それは、鎌倉時代の『源頼朝像』(最近では疑いが持たれているが)以来、受け継がれてきた写実的な肖像画であり、その後の『聖一国師像』などと同じく、日本中世期を代表する肖像画の一つであるといえるだろう。
 その後の、戦国時代から江戸時代にかけて、日本の肖像画は、幾つか写実風なものが見られるものの、類型化され、意匠化されて、浮世絵風なものに変わってしまう。それだけに、この時代の、『一休和尚像』のリアルさが際立って見えるのだ。
 (もっとも、江戸時代末期には、あの渡辺崋山が現れて、西洋画の陰影法を取り入れて、『鷹見泉石像』、『市河米庵像』などのすぐれた作品を残している。)
 ところで、一休像に戻って、仔細に見てみると、確かに眼前で描いたように、生々しくリアルな描写なのだが、これがあの高名を馳せた一休宗純和尚なのだろうかと思ってしまう。
 悪く言えば、日本のどこにでもいるような隣のおじさん、大阪の下町で、手拭い鉢巻をして、客を呼び込んでいるオッサンにも見えてしまうのだ。
 しかし、彼は、当時の後小松天皇の御落胤(ごらくいん)であり、臨済宗(りんざいしゅう)、大徳寺派の第四十七代の住持を務めた、稀代の禅僧なのである。
 私たちが知っている『屏風に描かれた虎を捕まえる』などの、『とんち話』の一休さんは、もちろん彼の子供時代の、秀才ぶりを伝える話に起因しているのだろうが、そのもととなる、『一休咄(はなし)』が世に出たのは、彼の死後、二百年も後の、江戸時代は元禄の頃である。


 さて、この室町時代に生きた一休宗純(1394~1481)の生涯については、そのすべてが分かっている訳ではない。文献によれば、後小松天皇の側室であった藤原家の家系につながる母が、洛西の嵯峨に下り、そこで一休(幼名、千菊丸)を生んだとされている。
 その後、6歳にして、京都安国寺に預けられ、周建という名をもらい、13歳にして、すでに周囲の人々をうならせるほどの、漢詩を作っていた。『一休とんち話』のもとになった話は、すべての真偽のほどはともかく、この前後の頃のものとされている。
 やがて、彼は安国寺を出て、小さな庵の西金寺(さいこんじ)に入り、17歳の頃には、そこで仕えた師の謙翁宗為(けんおうそうい)から、宗純(そうじゅん)という名前をもらったが、21歳の時に、その師も亡くなり、途方に暮れることになる。
 入水自殺を図るほどに悩んだ後、琵琶湖畔の堅田にあった、大徳寺派、祥瑞寺(しょうずいじ)の華叟宗曇(かそうそうどん)に弟子入りすることになる。そこでの厳しい修業の中で、師から『一休』の号をもらい、さらに、27歳の時、岸辺の小舟で座禅を組んでいた夏の夜、辺りの静寂を破る、カラスの一声で、悟りを得たといわれている。
 その後、一休は、兄弟子でもある養叟(ようそう)との確執もあって、祥瑞寺を離れ、京都から畿内各地へと、諸国放浪の旅を続け、小庵を転々と移り変わっている。
 そして、一休、62歳の時、世俗におもねり、お金集めに走る兄弟子、養叟を非難し、(養叟にとっては、大徳寺の再興のために必要だったのであるが)、さらに禅宗全体に対する警告の意味を込めて、二百編からなる漢詩文集『自戒集』を出した。
 さらに、その二年後、一休64歳の時に、法語『一休骸骨』(いっきゅうがいこつ)が出されるのだ。


 実はこの本のことについて、書きたかったのだが、その前置きのために、一休の生涯をたどる説明が長くなってしまった。次回は、本題の『一休骸骨』について・・・。」


(参照)  『一休』(栗田勇著、祥伝社)、  『中世的人間像』(西田正  好著、河出書房新社)、  『狂雲集』(柳田聖山訳、中央公論社)


 


 


 


 


 


 


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