2月11日
晴れているけれども、雲が多く、風は冷たい。しかし、気温は10度まで上がり、相変わらずに暖かい日が続いている。
昨日、散歩に出た後、夕方前に家に戻ってみると、飼い主がいない。やがて、日は沈んで行き、夕闇が迫ってきた。こんな時間まで、飼い主が帰ってこなかったことはない。
心配は、二つ。毎日の、お約束のサカナ一匹を、今日はもらえなくなるのではないか。そして、さらなる恐れは、飼い主がワタシを残して、もう北海道に行ってしまったのではないか。
ワタシはひたすらに、ベランダに座ったまま、飼い主を待っていた。そこに、聞き覚えのあるクルマの音。
良かった、飼い主だ。ワタシはニャーニャー鳴いて、今までの寂しさを訴える。飼い主は、いつものムツゴローさん可愛がりで、ワタシをなでまわす。
そして、サカナ一匹では足りずに、もう一匹おねだりする。長い間、不安な思いでいると、お腹がすいて、ともかく何かを食べたくなるのだ。ワタシには、ダイエットしなければならない体になってしまった、女の人の気持ちがよく分かる。
二匹目もガシガシ食べて、さすがに頭のところは残したが、ともかくおなかいっぱいになり、ようやく気持ちも落ち着いて、ストーヴの前でゆっくりと毛づくろいをする。ヤレヤレだ。
「昨日は、仕事の都合でいろいろと用事が重なり、遠くの町まで行ってきたのだが、帰りが遅くなり、ミャオのことが気になっていた。
このところ、ミャオのサカナは、冬場だということもあって、早めに4時頃にやっていたのだが、その時間を2時間も過ぎてしまったのだ。
家の前に着き、クルマのドアを開けると、もう目の前で、ミャオが待って鳴いていた。こんな時に、飼い主たちは、いつも胸キュンとなるのだろう。
サラリーマンのお父さんが、仕事や付き合いで遅くなり、寝静まった我が家に帰ってきた時に、飼い犬のシロや、あるいはネコのタマだけが迎えてくれる、その気持ちはよく分かる。
サカナを二匹食べた後でも、ミャオはしきりに私に甘えた。いい歳の、おばあさんネコなのに。しかし、ミャオの気持ちも分かるし、2か月先になるだろう、ミャオのとの別れが、今から心配になるほどだ。
しかし、日々の計画でさえ、まともにに達成できないのに、先のことを今から思い悩んでも始まらない。その時に十分に考えて、対処するしかないのだ。
この冬に、しっかり勉強しようと思っていた幾つかのことや、何としても行かなければと思っているヨーロッパ再訪などなど・・・。
人は弱いもので、どうしても毎日の、目の前の雑事にとらわれてしまう。それらのことを、日々取り繕うだけでいっぱいになり、積み重ねていくべき計画など二の次になってしまうのだ。
そのヨーロッパの文化を味わうためにと、自分への言い訳を考えながら、録画しておいたシェイクスピア劇を見た。
2月7日にNHK・BShiで放送された『リア王』(写真)である。このことは、1月31日の項でも書いていたのだが、物語は、リア王とその三人の娘との愛憎劇で、さらに周りの忠臣たちや、裏切りの兄弟愛などが絡んで、壮絶な終幕へと向かう、シェイクスピアの四大悲劇作品の一つである。
これは、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの舞台公演を、スタジオ・セットに移し替えて、映画として撮ったもので、リア王役のイアン・マッケランをはじめとした俳優たちの熱演は、さすがにシェイクスピア役者として、見事なものであったが、一方では、演出などで多少の不満も残った。
あのミュージカル『レ・ミゼラブル』や『キャッツ』等で有名な、トレバー・ナンの演出は、さすがに長い間、一座とともにあったことを思わせ、息のあったところを見せているが、私には、演劇と映画の区別が、少し曖昧(あいまい)にも思えた。
この問題は、簡単にはかたずけられない難しいものだが・・・。まして、シェイクスピア劇となると、我々日本人とっては、演劇として見るよりは、まずは翻訳された脚本として、有名なシェイクスピア作品を、読むことの方が先になるだろうから。
つまり、厳しく言えば、まず前提として、翻訳という問題があり、次に、その脚本を読んでしまうこと、そして実際の舞台を見ること、さらに、映画として映像を見ることの、それぞれについての意義と問題があるわけだから。
それは、シェイクスピア(1564~1616)の劇が上演された、当時のグローブ座のような劇場の観客たちは、ただ評判だけを聞いて、その出し物を見に行き、そして、涙を流し、怒り、笑いながら、芝居を楽しんだに違いないからだ。
昔、東京に住んでいたころ、舞台を見るのが好きだった母に付き添って、良く劇場に行ったものだ。歌舞伎から、新派、新国劇、現代劇に至るまで、いろいろな出し物を見てきた。
当時、まだ若かった私は、中にはあまり気の進まないものもあったが、今にして思えば、やはり当時の一流の役者たちの芝居を見ることができて良かったと思う。淀川長治さんの言葉(1月31日の項)が、身にしみるところだ。
その中の一つ、もうずいぶん昔のことだが、あれは確か、有楽町の芸術座ではなかったかと思うが、山本周五郎原作、小幡欣二演出の『おたふく物語』を見に行った時のことだ。
劇中、主人公のおふく(十朱幸代)が苦労しながら、家族を支えて働いているのに、遊びものの兄が、なけなしの金目のものまで奪っていく。そんな時に、場内の観客のおばさん達が、涙声になりながら、その兄を演じる役者に向かって、『この親不孝者が』と罵(ののし)ったのだ。
つまり、この映画『リア王』が終わった後で、主役のイアン・マッケランが言っているように、舞台での、役者たちと観客たちが作り上げる一体感こそが、演劇の一つの醍醐味なのだろう。
映画では、しかし、あの『ニュー・シネマ・パラダイス』(1月28日の項)のような、昔の映画館ならば、芝居小屋に近い雰囲気だっただろうが、現在の、ビデオやテレビが主流となった個人的な観劇方法においては、もちろん今でも映画館で映画を見ている人は多くいるわけだが、一人だけの場であるがゆえに、より冷静な鑑賞、判断をすることができるとも言えるのだが。
演劇、映画のいずれかが良い悪いという問題ではなく、演劇は演劇としての特質を生かし、映画は映画ならではのものを、良識に沿って作り上げ、我々観客に見せてほしいものだ。
シェイクスピア劇は、その作品の多くが、何度となく映画化されている。私は、それらのうちの幾つかを見たにすぎないが、舞台劇により近く納得できたのは、あのローレンス・オリビエの『ハムレット』(1948年)であったし、映画として忘れられないものは、フランコ・ゼフィレッリの『ロミオとジュリエット』(1968年)であった。
評判になった『リチャード3世』(1995年)は、時代を変えた設定とはいえ、私には、戦車が出てくるシーンなどは見るに耐えられないし、『恋に落ちたシェイクスピア』(1998年)も、良くはできているが、主人公の現代的な性格付けには、違和感を感じてしまう。
とかく、個人の好みや思い入れの深い映画・演劇の話は、難しいものだ。
ところで、もう5時に近いというのに、まだミャオが帰ってこない。探しに行かなければ・・・。
・・・長い間外にいて、すっかり野生の目になっていたミャオを見つけて、連れて帰った。今は、サカナを食べ、ストーヴの前で寝ている。そして、今日の一日が終わる。」
晴れているけれども、雲が多く、風は冷たい。しかし、気温は10度まで上がり、相変わらずに暖かい日が続いている。
昨日、散歩に出た後、夕方前に家に戻ってみると、飼い主がいない。やがて、日は沈んで行き、夕闇が迫ってきた。こんな時間まで、飼い主が帰ってこなかったことはない。
心配は、二つ。毎日の、お約束のサカナ一匹を、今日はもらえなくなるのではないか。そして、さらなる恐れは、飼い主がワタシを残して、もう北海道に行ってしまったのではないか。
ワタシはひたすらに、ベランダに座ったまま、飼い主を待っていた。そこに、聞き覚えのあるクルマの音。
良かった、飼い主だ。ワタシはニャーニャー鳴いて、今までの寂しさを訴える。飼い主は、いつものムツゴローさん可愛がりで、ワタシをなでまわす。
そして、サカナ一匹では足りずに、もう一匹おねだりする。長い間、不安な思いでいると、お腹がすいて、ともかく何かを食べたくなるのだ。ワタシには、ダイエットしなければならない体になってしまった、女の人の気持ちがよく分かる。
二匹目もガシガシ食べて、さすがに頭のところは残したが、ともかくおなかいっぱいになり、ようやく気持ちも落ち着いて、ストーヴの前でゆっくりと毛づくろいをする。ヤレヤレだ。
「昨日は、仕事の都合でいろいろと用事が重なり、遠くの町まで行ってきたのだが、帰りが遅くなり、ミャオのことが気になっていた。
このところ、ミャオのサカナは、冬場だということもあって、早めに4時頃にやっていたのだが、その時間を2時間も過ぎてしまったのだ。
家の前に着き、クルマのドアを開けると、もう目の前で、ミャオが待って鳴いていた。こんな時に、飼い主たちは、いつも胸キュンとなるのだろう。
サラリーマンのお父さんが、仕事や付き合いで遅くなり、寝静まった我が家に帰ってきた時に、飼い犬のシロや、あるいはネコのタマだけが迎えてくれる、その気持ちはよく分かる。
サカナを二匹食べた後でも、ミャオはしきりに私に甘えた。いい歳の、おばあさんネコなのに。しかし、ミャオの気持ちも分かるし、2か月先になるだろう、ミャオのとの別れが、今から心配になるほどだ。
しかし、日々の計画でさえ、まともにに達成できないのに、先のことを今から思い悩んでも始まらない。その時に十分に考えて、対処するしかないのだ。
この冬に、しっかり勉強しようと思っていた幾つかのことや、何としても行かなければと思っているヨーロッパ再訪などなど・・・。
人は弱いもので、どうしても毎日の、目の前の雑事にとらわれてしまう。それらのことを、日々取り繕うだけでいっぱいになり、積み重ねていくべき計画など二の次になってしまうのだ。
そのヨーロッパの文化を味わうためにと、自分への言い訳を考えながら、録画しておいたシェイクスピア劇を見た。
2月7日にNHK・BShiで放送された『リア王』(写真)である。このことは、1月31日の項でも書いていたのだが、物語は、リア王とその三人の娘との愛憎劇で、さらに周りの忠臣たちや、裏切りの兄弟愛などが絡んで、壮絶な終幕へと向かう、シェイクスピアの四大悲劇作品の一つである。
これは、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの舞台公演を、スタジオ・セットに移し替えて、映画として撮ったもので、リア王役のイアン・マッケランをはじめとした俳優たちの熱演は、さすがにシェイクスピア役者として、見事なものであったが、一方では、演出などで多少の不満も残った。
あのミュージカル『レ・ミゼラブル』や『キャッツ』等で有名な、トレバー・ナンの演出は、さすがに長い間、一座とともにあったことを思わせ、息のあったところを見せているが、私には、演劇と映画の区別が、少し曖昧(あいまい)にも思えた。
この問題は、簡単にはかたずけられない難しいものだが・・・。まして、シェイクスピア劇となると、我々日本人とっては、演劇として見るよりは、まずは翻訳された脚本として、有名なシェイクスピア作品を、読むことの方が先になるだろうから。
つまり、厳しく言えば、まず前提として、翻訳という問題があり、次に、その脚本を読んでしまうこと、そして実際の舞台を見ること、さらに、映画として映像を見ることの、それぞれについての意義と問題があるわけだから。
それは、シェイクスピア(1564~1616)の劇が上演された、当時のグローブ座のような劇場の観客たちは、ただ評判だけを聞いて、その出し物を見に行き、そして、涙を流し、怒り、笑いながら、芝居を楽しんだに違いないからだ。
昔、東京に住んでいたころ、舞台を見るのが好きだった母に付き添って、良く劇場に行ったものだ。歌舞伎から、新派、新国劇、現代劇に至るまで、いろいろな出し物を見てきた。
当時、まだ若かった私は、中にはあまり気の進まないものもあったが、今にして思えば、やはり当時の一流の役者たちの芝居を見ることができて良かったと思う。淀川長治さんの言葉(1月31日の項)が、身にしみるところだ。
その中の一つ、もうずいぶん昔のことだが、あれは確か、有楽町の芸術座ではなかったかと思うが、山本周五郎原作、小幡欣二演出の『おたふく物語』を見に行った時のことだ。
劇中、主人公のおふく(十朱幸代)が苦労しながら、家族を支えて働いているのに、遊びものの兄が、なけなしの金目のものまで奪っていく。そんな時に、場内の観客のおばさん達が、涙声になりながら、その兄を演じる役者に向かって、『この親不孝者が』と罵(ののし)ったのだ。
つまり、この映画『リア王』が終わった後で、主役のイアン・マッケランが言っているように、舞台での、役者たちと観客たちが作り上げる一体感こそが、演劇の一つの醍醐味なのだろう。
映画では、しかし、あの『ニュー・シネマ・パラダイス』(1月28日の項)のような、昔の映画館ならば、芝居小屋に近い雰囲気だっただろうが、現在の、ビデオやテレビが主流となった個人的な観劇方法においては、もちろん今でも映画館で映画を見ている人は多くいるわけだが、一人だけの場であるがゆえに、より冷静な鑑賞、判断をすることができるとも言えるのだが。
演劇、映画のいずれかが良い悪いという問題ではなく、演劇は演劇としての特質を生かし、映画は映画ならではのものを、良識に沿って作り上げ、我々観客に見せてほしいものだ。
シェイクスピア劇は、その作品の多くが、何度となく映画化されている。私は、それらのうちの幾つかを見たにすぎないが、舞台劇により近く納得できたのは、あのローレンス・オリビエの『ハムレット』(1948年)であったし、映画として忘れられないものは、フランコ・ゼフィレッリの『ロミオとジュリエット』(1968年)であった。
評判になった『リチャード3世』(1995年)は、時代を変えた設定とはいえ、私には、戦車が出てくるシーンなどは見るに耐えられないし、『恋に落ちたシェイクスピア』(1998年)も、良くはできているが、主人公の現代的な性格付けには、違和感を感じてしまう。
とかく、個人の好みや思い入れの深い映画・演劇の話は、難しいものだ。
ところで、もう5時に近いというのに、まだミャオが帰ってこない。探しに行かなければ・・・。
・・・長い間外にいて、すっかり野生の目になっていたミャオを見つけて、連れて帰った。今は、サカナを食べ、ストーヴの前で寝ている。そして、今日の一日が終わる。」