ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(87)

2009-02-28 18:15:04 | Weblog



2月28日
 今日もまだ曇り空が続いている。朝の気温は3度、日が差してくれば、もう少し暖かくなるのだろうが、この肌寒さでは、ストーヴの前から離れられない。
 昨日は、一日中、シトシトと雨が降っていて、家にいるしかなかった。いくら、雨の降る日のネコは、寝てばかりいる(2月25日の項)といっても、さすがに退屈してしまう。
 飼い主と、オフザケの噛みつき合いをしたところで、ほんの少しの間の気晴らしでしかない。そこで、ニャーと鳴いていると、何を思ったのか、飼い主が私を抱えて、高いタンスの上にあげた。
 ワタシが日頃、家じゅうのあちこちを探検して、もぐり込むという習性を見ていて、飼い主が思いついたのだろうが、冗談じゃない。
 若いころならともかく、もう年をとった今では、とてもじゃないが、今まで上がったこともなかった、こんな所はと、ビビってしまい、不安の鳴き声をあげた。そして、再び抱え下ろされる時に、怖さで、思わず少し、チビってしまった。
 飼い主が何やら言って、ワタシに謝っていたようだが、まったく、もう少し、ネコのデリカシーな気持ちを分かってほしいものだ。 
 そのワタシがチビったシッコを、ティッシューでふいた後、飼い主が、「くっせー」と言って、それをワタシの鼻先に突きつけた。ばっかじゃないの。

 「さて、前回は、一休宗純(1394~1481)のことについて、あの有名な肖像画や、生い立ち、修行の日々などを書いてきたが、今回は、彼の残された著作集から、その考えの道筋をたどりたいと思う。
 一休は、62歳の時に、兄弟子、養叟(ようそう)に対する、宗教上の批判文とされる『自戒集』を出しているが、その二年後に、公(おおやけ)にされたのが『一休骸骨(がいこつ)』という、絵入り仮名法話集である。
 これは、一般の人々向けの、仏教布教書とでもいうべきもので、他にも、幾つかの法話集が残されている。
 私も、『一休骸骨』の名前は知っていたが、その絵入りの本文を初めて見たのは、前回、参照の項であげた『一休』(栗田勇著、祥伝社)を読んだ時である。(さらに、今ではネット上でも、その全文を見ることができるようになった。)

 一人の僧が、墓場で三体の骸骨たちと会い、その彼らがたどってきた道を、つまり日常の生活から、死の床に伏して、葬式、火葬などに至る有様を、骸骨の姿のままで描いて、そこに分かりやすく、仮名文字による説明文や、歌が書いてある。
 まずは、楽しげな宴会の模様が描かれていて、骸骨たちが車座になって、囃子(はやし)たて、一体の骸骨が舞っている。
 次の場面では(写真)、二体の骸骨が抱き合う様が描かれ、そこには、歌が二首と、その思いが書かれている。

 我ありと 思う心を 捨てよ ただ
 身の浮雲の 風にまかせて

 世の中は まどろまで見る 夢のうち
 見てや驚く 人のはかなさ      


 こちらに、お寄りあそばせ、いつまでも、同じように長生きしたい
 ものでございます。まことに、そうお考えになるに違いありませ  
 ん。どこまでも、同じ心でございます。

 その下には、病に伏した骸骨を他の骸骨たちが見守っている様子が描かれている。そこに書かれている言葉は。

 永劫(えいごう)に生きることなど、祈り甲斐のないことでございます。一大事(一切を空と悟ること)よりほかは、人間は、何もお心にかけないで頂きとうございます。人間は、不定[ふじょう)でございますから、今さらあわてるほどの、何ごともございませぬ。(以上、柳田聖山訳)


 次には、死んだ骸骨(というのも変だが)を、野辺(のべ)送りするための骸骨たちの葬列の絵が描かれ、やがて火葬にされた後の、卒塔婆(そとうば)が立っているだけの、鳥辺野(とりべの)の情景が描かれて、終わっている。そこに書かれている歌の中から、三つ。
 
 誰もみな 生きるも知らず 住み家なし
 彼らはもとの 土になるべし


 世を憂(う)しと 思い鳥辺野 夕けむり
 よその哀れと いつまでか見ん

 焼けば灰 埋めば土と なるものを
 何か残りて 罪となるらん


 そして、最後の一首。                   

 何事も みな偽(いつわ)りの 世なりけり
 死ぬるということも 真(まこと)ならねば


 なんという無常観だろう。これが、あの『とんち話』で有名な、一休和尚の言葉だろうか。これが、仏教の法話集と言えるのだろうか。
 しかし、ここに至った、一休自身の生い立ちと経歴、さらに当時の時代背景を考えてみると、新たに見えてくるものがある。
 天皇の御落胤(ごらくいん)の子供とはいえ、わずか6歳で、母親と離されて、寺に預けられ、それからは、苦難の道を、一人で生きていかなければならなかった一休。
 時代は、南北朝から室町時代へ、やがては、足利氏の盛衰を経て、戦国時代に向かう、混乱の世の中だった。
 一休の生きた87年の間に、たびたび天変地異による、全国的な大飢饉(ききん)が襲い、それにつれて、数年に一回の割合で農民たちの一揆(いっき)が起こり、さらに権力争いからの応仁の乱(1467年)などで、京の都は疲弊(ひへい)し、混乱していた。
 死体が累々(るいるい)と重なり、骸骨が野ざらしになっている光景は、彼らにとって、そう珍しいものでもなかったのだ。そんな世の中で、明るい来たるべき来世などを、誰に言い聞かせることができただろうか。

 数百万の人々が死んだ太平洋戦争から、すでに64年もの歳月が流れている。あの悲惨な戦場や、爆撃されて死体が折り重なる市街地の光景を、目の当たりにした人々は少なくなり、その体験談も語られることはなくなってきた。
 平和な時代が続くのは、素晴らしいことなのだが・・・。
 先日、NHK『クローズ・アップ現代』で、『おくりびと』がアカデミー賞に輝き、小説の『悼(いた)む人』が、注目を浴びていて、これらは、日本人が、個人の死を考えるいいきっかけになるし、その時が来ている、といったことが話されていた。
 私は、その映画を見ていないし、小説を読んでもいない。だけれども、それとは別に、この『一休骸骨』は、強く私の胸に訴えかけてきた。
 一休の無常観の彼方にあるもの、そのかすかな光に・・・。」


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