ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(85)

2009-02-21 19:49:57 | Weblog
2月21日
 快晴の空が広がっている。黄砂の予報が出ていたが、それほど空がかすんでいるという風でもなかった。
 霧氷の付いた山々も見えている。気温は、朝は-5℃まで冷え込んだが、日中は10度位まで上がる。日向は暖かいのだが、まだ風が冷たい。
 いつものように、今日も飼い主と散歩に出て、飼い主は先に帰って行ったが、ワタシはその後を追って、すぐに家に戻ってきた。
 飼い主は、ワタシの顔を見て、いつものオーヨシヨシをしてくれた。内心のところは、ワタシがいない間に、掃除などいろいろと片付けたかったらしく、少し迷惑そうでもあったが。
 とは言っても、やはり暖かくなってくると、やはり洗濯物の干された家のベランダで、日向ぼっこをして寝て過ごすのが、ワタシのような年寄りネコには、似合っているのだ。
 時折、近くにやってくる、小鳥たちの羽音に聞き耳をたて、飼い主の足音に、その動静をうかがう。そうして、一日が過ぎていくのだ。
 
 「天気予報も一日晴れだったから、今日は久しぶりに山に行きたかったのだが、朝起きて見ると、山にはそれほど雪は降っていないし、まして、人の多い土曜日に行くこともないと、とりあえず、家の仕事を済ませることにした。明日から一週間、天気が悪いとのことだから。
 今日、ミャオといつもの散歩に出た時、斜面のところに、幾つものフキノトウが出ているのを見つけた(写真)。その一つを取って、香りをかいでみる。
 春の草の匂いの中に、小さくツンとくるあのフキノトウの香りがする。酢味噌和えにして、温かいご飯の上にかけて食べることを想像しただけで、口いっぱいにその香りが広がってくる。
 春なのだ。その、心をなごやかにする喜びとともに、一方では、ある寂しさも感じてしまう。(今、北海道では、大雪が降っているということだが。)寒い冬が去ると、もうこの九州では、白い雪に覆われた山々に登ることはできなくなるのだ。

 季節は、移り変わり、時は流れる。自然は、時に従い、その繰り返しを続けていく。生きとし生けるものの上に、すべて等しく。
 ある物を見て感興を覚えて、考えをまとめようとすると、その基になったもののことが気にかかり、結論が出ないまま、また新たに考えてしまう。遡(さかのぼ)って行けばきりがない。
 私の貧弱な思考力では、その時々に、時間と空間を区切って考えていくしかないのだろうが。
 こんなことを書いているのは、前回少しふれた大和絵師、岩佐又兵衛(1578~1650)について、その時代背景を調べてみて、また新たな思いが湧いてきたからでもある。
 それは、前回書いた、グルジアの画家、ピロスマニのの番組を見て感じた私の思いとは、その意味合いを異にしている。つまり、その岩佐又兵衛の番組の中の『山中常盤』を見て、私は、作者である彼の人生と、その背後にある時代を知りたくなったのだ。
 あの織田信長から、豊臣秀吉、徳川家康への時代へと、慌ただしく移っていった、戦国時代。その波乱の時代を生き延びた、一人の画家、岩佐又兵衛の生い立ち・・・。
 私は、ちょうどひと月ほど前に、一休禅師(1394~1481)についての本を読み終えたばかりだった。そこに書かれていた一休の、風狂の情念を、思い出さずにはいられなかったのだ。
 二人は生きた時代も違えば、その名を残した分野でも異なっているし、直接に結び付けるものは何もない。ただ、少し飛躍した考えかもしれないけれど、私が感じたのは、二人の凄まじいばかりの、怨念の昇華である。
 誰にでもある、負の思いは、積み重なることで、予期せぬほどのエネルギーとなって、内なるものから、外なるものへとほとばしり出ていく。それが、価値ある創造物として、偉大なる芸術作品になるのだろう。
 私にも、若き日に、そんなエネルギーを内に抱えていた時代があったのに、悲しいかな、その時を無駄に使い、怠惰(たいだ)に過ごしてきてしまった。『少年老い易く、学成り難し・・・』の言葉どおりに。
 ともかく、次回から、この二人について、少し考えてみたいと思う。それは、私が今、ひとりで生きていく上での、一つのよすがになるかもしれないから・・・。
 世の中には、そんなことなど考えなくても済むような人たちの方が多いのだろうが、そう考えざるを得ない私を、不幸だなどとは思わない。
 永遠に答えは出ないのかもしれないけれど、そこには、考えることの楽しみというのもある。生きていて良かったと気づく・・・。」
  

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