ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(47)

2008-04-30 16:24:43 | Weblog
4月30日 晴れた日が続いている。昨日22度、今日24度と春本番の暖かさだ。庭には、花々が咲き乱れ、木々の新緑が青空に映え、そよ風が吹いている。
 若いころなら、この季節に浮かれて、あちこち歩き回るところだが、年寄りネコのワタシには、半日陰のベランダで、のんびりと過ごすのが一番いい。春の息吹を感じさせる花や木の、香りあふれるやさしい風を受けながら、ウトウトとして、ふと鳥の鳴き声や羽音に、そして小さな生き物たちの気配に耳をすませる。そして一日が過ぎていく。
 ところが、昨日のことだ。ワタシは、朝のうちはまだ冬からの習慣で、もう電気は入っていないが、コタツ布団の上で寝ている。そして、ベランダに日が当たるころになると、飼い主がワタシを呼ぶ。
 そこでベランダに出ると、何かの気配に一瞬、身構えた。なんとマイケルがいたのだ。朝、すぐに飼い主が洗濯物を干していたが、その下で、マイケルは気持ちよさそうに横になっていた。いつもワタシがそうしているように、まるでこの家にずっといる飼い猫のようだった。
 飼い主も、マイケルがいるなんて気づかなかったらしいが、そのまま後ろからじっと見ている。ワタシは体を低くして、ゆっくりとマイケルのそばに近づいて行った。マイケルが例の甘い声で、鳴いている。ワタシはマイケルの体の臭いをかぎ終わると、すぐに戻ってきて、部屋のコタツ布団の上に座った。
 あんなヤツのそばに、一緒に居たいとは思わない。いくらベランダがいいとしても、ゴメンだ。部屋の中に一人で居たほうがいい。飼い主が何か言っていたが、振り向きもしないで、そのまま座っていた。
 しばらくたって飼い主が再びワタシを呼んだ。行ってみると、まだマイケルが居た。ワタシはそのままの距離を保ち、毛づくろいをしていた。すると今度は、マイケルが起き上がり、ワタシのほうへ近づいてきた。ワタシは小走りに、家の中に入った。
 その後を追いかけて家に入ろうとしたマイケルを、飼い主が止めて、追い払った。ベランダの下に下りたマイケルを、さらに脅して何か物を投げるような音がした。ベランダに出てみると、走っていくマイケルの姿が見えた。
 これでしばらく、マイケルは来ないだろう。やれやれ、ともかく今日は、ゆっくりとベランダで寝ることができる。と同時に、少し寂しい気もする。彼とは、いろいろとあったにしても、この山の中に住む数少ないネコ仲間の一匹なのだ。
 好きと嫌いが交錯する複雑な思い、それはワタシたちネコ社会だけでなく、人間たちの間でも同じことなのだろう。愛する思いと、嫌な思いが断続して、作り上げられていくものが、お互いをつなぐ絆になるのだろう、良し悪しはともかくとして。
 好きな思いにあふれていても、嫌いにならなければならない、離れなければならない時もあり、逆に、嫌いでたまらないのに、好きであるかのように一緒に居なければならないときもある。どちらが正しいのか幸せなのかは、軽々しく決めることはできない。
 つまり時の流れとともに、長い歳月をかけてみれば、良いことも悪いことも、いつしか平均化されて、すべて同じようになってしまうものなのだ。それを、自分だけはという考えでは、いつまでたっても満たされる思いにはならないだろう。ワタシもマイケルも、愛憎を超えたところにある思い、お互い様だということを十分にわかっているのだ。
 ところで、あのマイケルの左目の傷(2月17日付)は、その痕(あと)が残っているものの、すっかり直り、それがちょっとしたスゴみになっていて、苦みばしったいい男だと思いません?