ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシの飼い主(14)

2008-04-27 17:32:40 | Weblog
4月27日 「晴れて穏やかな日が続いているが、これからの一週間もいい天気が続くとのことだ。行楽地は、ゴールデン・ウィークの人出であふれていることだろう。
 その前にと、ミャオも元気になってきたことだし、一昨日、久しぶりに山に登ってきた。家から歩いて、往復4時間ほどで登れる山だが、いつものことながら、誰にも会わずに、のんびりと春先の山を楽しむことができた。
 山の中腹辺りでは、今が盛りのヤマザクラを見ることができたが、全体に新緑の木々の彩りを楽しむには少し早かったかもしれない。しかし、頂上の少し下の所にあるアセビの群落は見事だった。普通の白い色から、少し緑っぽいもの、うす赤いものなどの花が鈴なりに咲いていて、その大きな株が点々と続いている。
 アセビのむせ返るような香りの中、ウグイスが鳴き、遠くの山々は春霞の中に溶け込んでいる。山里に住んでいても、さらなる山の中にいることの心地よさ。大自然の中に包まれていることほど、心安らぐ時はない。
 きつい登りや、長時間の歩行というつらさを考えても、その労力に十分報いる、いやそれ以上の、他のどこでも得ることのできない楽しみを、つまりは生きていることの喜びを感じることができるから、私は山に登るのだろう。
 ところで、夏目漱石のあの有名な『草枕』の冒頭の一節。・・・山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。知に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。とにかく人の世は住みにくい・・・。
 この世の中で生きていくことの難しさを、自嘲と自笑をこめて、見事に言い当てた一文だとは思うが、ミャオと私の関係にも当てはまるかもしれない。
 私が北海道に行けば、ミャオは困る。ミャオとずっと一緒にいれば、私は身動きが取れない。とにかくミャオと私の関係は難しい。
 しかし、この冬を一緒にすごし、さらにあのケガと病気があってから、私の思いに少し変化があったことは確かだ。犬好きの私が、長い間ミャオと暮らすことによって、いつの間にか猫好きに、いやミャオのことが大好きになってしまったのだ。
 正直言って、美人なネコではないし、その上、年もとっている。なのに、無性にかわいいと思ってしまう。私の傍で安心して寝ているミャオの姿を見ると、おもわずキャワイイーとなでてしまうのだ。このままミャオといてもいい、とさえ思ってしまうのだ。
 待て、これはひょっとして、すべてミャオが仕組んだことではないのだろうか。オスネコとケンカしてケガしたのも、隠れていたのも、病気になってエサを食べなかったのも、飼い主が北海道に行ってしまわないように、ずっと一緒にいてくれるようにと考えてやったことではないだろうか。
 この穏やかな春の日、ふと考えてみたりして・・・。」

 バッカじゃないの、ワタシがそんなことするワケないでしょう。まったく、のんびりするとすぐ、しょーもないこと考えるんだから人間は。「のどもと過ぎれば熱さを忘れ」のことわざ通りで、あの時のワタシを抱きしめて流した涙は何だったの。
 そんなバカなこと考えてるより、ホレホレ、サカナの時間でしょ。