ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(46)

2008-04-25 19:15:07 | Weblog
4月25日 今日も晴れて、気温18度、さわやかな春の日だ。チューリップと芝ザクラの咲く庭で、ウトウトと寝てすごす。
 二日前に、病院に連れて行かれて、手術を受けたのが、もう何日も前のことのようだ。あの手術で、全く魔法をかけられたように、ワタシのケガからの病はすっかりなおってしまった。
 しかしまだ、術後の感染(特にあのヘモバルトネラ症が怖い)予防のため、朝夕に抗生物質の服用は欠かせない。飼い主が、いつもは食べさせてもくれない、カツオの刺身に錠剤をもぐりこませて、ワタシに食べさせている。もちろんワタシは気づいているが、自分のためだと、黙って飲み込んでいる。
 普通に健康でいることが、これほどありがたいことだとは・・・人は、いやネコは、こうしてまた一つ物事を学ぶことになる。幾つになっても。
 もしワタシが、ほんとうのノラネコだとしたら、あのまま自分の回復力だけでは、到底持ちこたえられなかったことだろう。それを言えばもう、あの4年前の時に、すでに命を落としていたに違いない。
 つまり、ネコにとって、もって生まれた生命力の強さのほかに、その生活環境や飼い主の意識によって、そのネコ寿命が左右されることになる。われわれネコ族は、人間に依存することで、食・住が確保されるけれども、逆に一瞬にしてそれらが奪われ、命の危機に瀕することもあるのだ。ああ、恐ろしや。
 ワタシの飼い主は、その責任を全うしているだろうか。いや、今度も前の時も、いずれも気づくのが遅すぎる。もっと早く、病院に連れて行ってくれれば、あんなに長い間、ワタシは苦しまずにすんだのに。言い訳はいろいろあるだろうが、直ったから良かったものの、ワタシがもし死んでいたら、一番辛い思いをするのは、飼い主のアナタなのに。
 そしてワタシを置いて、また北海道へ行くこと。あれほどワタシがいなくなったことで、心配し、涙まで流したというのに、分からないのかな、今度はワタシがその立場に立たされるというのが。これじゃお互いに、苦しみ合う、マゾ関係ではないのか。ワタシが年寄りだということを、肝に銘じておいてほしい。
 
 「分かっているよ、ミャオ。しかし、すっかり元気になったオマエを見ていると、もう今までどうり、オレがいなくなっても十分にやっていけると思えるからだ。
 久しぶり、実に二週間ぶりにオマエと一緒に散歩して、うれしかったよ。何も変わっていない。オマエの歩き方、鳴き声、あちこち臭いをかぎ、用心深くクルマの音に身構える所など、前と一緒だ。
 草が茂り、小さな花々が咲き、木々の芽吹いたばかりの新緑の葉が、鮮やかに空に映える。やさしい風が吹いて、いい季節だ。
 ・・・思い出すなあ、北海道の春。まず残っていた雪の間から、いち早くフクジュソウの黄色い花が咲いているのを見ると、ついに春が来たと思う。やがてエゾエンゴサクの薄紫の花、カタクリの赤紫の花、オオバナノエンレイソウの白い花などが群れとなって咲き、小川の流れに沿ってエゾノリュウキンカの黄色い花が続き、湿地のあちこちにはミズバショウの花が点々と見える。
 そして、待ちに待っていた山菜の季節になる。ギョウジャニンニク(アイヌネギ)、タラノメ、ワラビ、ゼンマイ、コゴミ、フキ、そしてエゾノリュウキンカはヤチブキともいって食べられるし、他にもニリンソウやヨモギの若葉などなど・・・。
 コブシの白い花が咲き、やがてエゾヤマザクラの濃いピンクの花が咲く頃、背景にはまだ白い残雪に被われた山々が連なっている・・・いやー、やっぱ、北海道の一番いいころでないかい。
 ミャオ、行かせてくれー。」