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夕食の際に赤ワインを飲むとしゃれた気分になるものだ。

2009-03-15 14:27:33 | 雑記

 これは3月15日、朝日新聞朝刊の「世界の論調」欄にあったニューヨーク・タイムズ電子版の社説の書き出しだ。
 記事はオックスフォード大の研究者が発表した、女性に対するアルコールの功罪の結論について書いてあった。毎日適量の飲酒量の女性でさえ、乳がん、肝臓がん、直腸がんなどの危険が高まる。反対に適量の飲酒は、甲状腺がんや腎臓がん、リンパ腫の危険を減らすという。
 さらに混乱するのは、まったく飲まない人は週に6杯までの人より、がんにかかる確率が高いという。じゃあ一体どうすればいい? これが最終判定でないにしても、飲んでも飲まなくても人間は何らかの危険にさらされているのは確かのようだ。
 それよりもこの記者が「赤ワインを飲むとしゃれた気分になる」というくだりにわたしは興味を持った。わたしは今まで欧米人は、ワインなんて日常の飲み物の一つと考えているのだろうと思っていたからだ。赤だろうが白だろうが、そこにワインがあるから飲む。そんな感覚だろうと思っていた。それも間違いではないのだろうが、わざわざ赤ワインと断っているところを見ると赤に思い入れがあるのだろう。
 そこで思い出したのが、映画のシーンだ。誕生パーティでも女性の招きで訪ねる夕食の席でもいいが、男はドレスアップして花束と赤ワインを持参すという場面だ。決して白ワインではない。ワインのもつ雰囲気におごそかなものがあって、しゃれた気分にさせるのかもしれない。
 かつて、シカゴ・トリビューンの元コラムニスト、ボブ・グリーンの書いた「マイケル・ジョーダン物語」の中で、レストランでのワインのテースティングについての記述が思い出される。
 アメリカ人は、レストランでのこの儀式には慣れていると思っていたが、ボブ・グリーンは珍妙な形だけの儀式だと揶揄していた。この赤ワインでしゃれた気分も、アメリカ人もわれわれと同じような気分を持っているのだということを分からせてくれた。それにしてもワインには、特別な気分にしてくれる何かがある。
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素晴らしき哉! 春画

2009-03-13 11:32:20 | 雑記

 1989年発行の二見文庫「秘蔵の名作艶本・大奥の女」という淫文集に挿絵として春画が掲載されている。当時は局部の露出に神経質だったのか、すべてにボカシが入っている。男女の性器がかすかに分かる程度だ。
 そして最近図書館から借り出したのは、「葛飾北斎・春画の世界」洋泉社2005年3月刊、別冊太陽「春画」平凡社2006年11月刊に加え「浮世絵春画を読む上・下」中公叢書2000年11月刊などに挿入の絵は、いずれも巨大な男根とこれまた大きく描かれた女陰の滑稽さに猥褻さがあまり感じられない。しかし、着物姿の交合は、想像力をかきたてられ、その絵の中に入っていくとぞくぞくする興奮に見舞われることも確かだ。いまどきのインターネットで見るアダルト・サイトの映像のまやかしや陳腐さと比べものにならない。
 現代の男女のファッションは、体の線をくっきりと見せることには事欠かないが、下着は窮屈なブラジャーや小さな襞飾りのパンティやTバックというセクシーなものだが、ジーンズはゴワゴワとして手触りが悪い。
 それに引き換え春画の時代は、ノーブラ、ノーパンで他を拒むものが無いと受け止められるほどだ。女の着物の襟足から手を滑り込ませ、乳房と乳首の感触に身を震わせながら、裾をちょいと持ち上げて股間の恥毛に隠された暖かい湿り気に触れるともう恍惚の境にさまようことになる。
 そんな想像をたくましくしながら、日本を代表する浮世絵の奥の深さを投影した春画を見直すきっかけになった。もともと春画の使い道はなんだったのか。よく言われるのは、当時の性教育に使われたというものがある。
 いろんな性行為の体位を描いたもので、嫁入りに母親が娘に持たせたとも言う。それ以外に「火除け」「虫除け」「弾除け」などの護符や夫婦和合のためのお守り、あるいは大名からの贈り物や正月の年賀にも使われたらしい。
 またアダルト・サイトだけれど、あの男が絡むシーンはどうも好感が持てない。男がスマートでないヤクザっぽいので見るのも嫌になる。今はまったく観ていない。それに比べると春画のほうは、美化されている嫌いがあるが嫌悪感がない。
           
 この葛飾北斎の「富久寿楚宇(ふくじゅそう)」第九図が女の表情や二人の重なり具合が大好きな絵だ。エクスタシーの恍惚とした表情がエロティックだ。これは、亭主の留守に間男を呼び、性を堪能する二人。重なり合う二人の裸身のうねりが見事である。本画帳中最も評価の高い一図と説明にある。
 このブログに掲載してあるのは、本からスキャナーで取り込んだものではない。著作権の関係で手間をかけた。スキャナーで取り込んで、トレーシング・ペーパーの上にトレース、それを再びスキャナーで取り込み、プリントアウトしたものに着色したものだ。色合いは原本通りにはなっていない。こういう作業も結構楽しい。 局部に着色していて、絵師はどんな気持ちで描いていたのだろうと思ったことだ。妻や恋人の持ち物を参考にしたのだろうかとも思ったりする。それにしても女がスキ者に描いてあることだ。絵の中の書き入れの文章には、「抜かずにやっておくれ」とか「あと五つ気をやって」などと男に要求している。この時代の男もこんなスケベ女が好きだったのだろうか。いや、絵師がそんな女が好きだったのか。とにかく男が大変だというのは間違いない。
           
 もう一つ北斎のものをトレースした。欠題組物の第八図、遊女とその情夫。年明けに夫婦の約束をしている二人。互いに相手が約束を違えないかと心配している。春画における常套の設定であるとの説明がある。春画は、乳房に注意を向けさせないで、男女の顔の表情と性器結合に力点が置かれている。この絵でも乳房は申し訳程度の扱いだ。
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隆慶一郎「吉原御免状」

2009-03-09 12:45:54 | 読書

           
 肥後の山中で宮本武蔵から二天一流の剣を学び武蔵の遺言に従って、いま新吉原を眺める浅草日本堤に立っていた。涼やかな25歳の若者松永誠一郎でまだ童貞である。
 その吉原で邂逅したのは、80歳に近い幻斎と名乗る男で踊りの名手であり剣の達人だった。松永誠一郎がこの吉原でたびたび殺気を帯びた空気を感じはじめる。それでも親しくなった幻斎に「女子(おなご)の味を知らなきゃあ」と暗に筆おろし(童貞を捨てること)を勧められる。
 幻斎は筆おろしを勧める口ばかりでなく花魁の高尾との三回目の登楼の段取りまでつけてしまう。この三回目というのは、吉原では「馴染」といって夫婦になる意味らしい。したがって今回は寝所を共にすることになる。
 長い記述の誠一郎と高尾の交合の場面は、いやらしさの微塵もないまるで浮世絵絵師の北斎の春画を見るような芸術的な表現が印象的だ。
 少し引用しよう。“高尾は手をとって誠一郎を立たせると、ひざまずいてその帯を解いた。着衣を一枚一枚剥ぐと禿(かむろ、遊女の雑用をした少女)に渡してゆく。やがて誠一郎は、下帯一本の裸体で、高尾の前に立っていた。
 高尾は『着綿』(きせわたと読む。着綿の目的は、菊の花においた露をしみとらせることで、天皇の玉体(高貴な人の体の総称)を拭うのに使われる。そのしきたりを幻斎が取り入れた)を手にとり、ゆっくりと誠一郎の裸身を拭ってゆく。
 『着綿』が肌に触れると、わずかに涼しく、こそばゆい感覚がある。そのこそばゆさが、次第に快感に変わっていった。高尾が全身を拭い終えたとき、誠一郎の男はふんどしの中で膨張の極に達していた。高尾が静かにそのふんどしをとく。
 たちまちはやりたったそれが屹立し、高尾の顔の前で揺れた。高尾はいとしそうにそれに頬ずりすると『着綿』で拭い、さらに陰嚢(ふぐり)に及んだ。
 会陰(えいん)から陰嚢へと逆に拭き上げられた時、誠一郎のつま先から頭のてっぺんまで、しびれるように強烈な快感が走った。この時高尾の手が、陰嚢の根元をきつく握り締めなかったら、誠一郎は精を放っていたかもしれない”
 
これだけでもかなりぞくっとくるが、これからますます佳境に入っていく。
“高尾は誠一郎の右手を左手で柔らかく握った。誠一郎の手をそっと己の乳房に導く。誠一郎の指先で、まるで羽毛で触れるように、かすかにかすかに、乳房を、次いで乳首を、さすらせる。不意に誠一郎の指の下で、桃色の乳首が、ぴくんとふるえた。その感触に誠一郎の指先もまた、ぴくっとふるえる。乳首の大きさがわずかに増し、目に見えて硬く尖った。
 「あ」かすかな声が、高尾の口から洩れる。目は半ば閉じられている。高尾の手は、なおも誘導をやめない。桃色の割れ目から突起へと導かれていく。長い突起の中から、濃い桃色の小さな核が現れる。指先がわずかにそこに触れると、高尾の全身が大きくそり返った。
 「あ」前よりもはっきりした声で、高尾がうめいた。誠一郎の指は、小さな輪を描くようにして、少しずつ、少しずつ、奥へ導かれてゆく。異様な触感があった。 その中は熱く、ふくれていた。無数の襞(ひだ)が感じられる。その襞の一つ一つが膨れているような感触なのだ。やがて突然その襞がなくなり、滑らかな、やや広い場所に入った。同時に、指の中ほどと根元が強烈に締めつけられる。
 「ああっ」絶え入るような声が洩れたとき、誠一郎はその広い場所が痙攣するのをはっきりと感じ、同時に馥郁たる香りを嗅いだ”
 そして二人は合体してほとばしるような快感に身をゆだね、やがて強烈なオーガズムへと登りつめる。どうやらこの高尾、男が焦がれるみみず千匹という名器の持ち主のようだ。
 家康の影武者二郎三郎のお墨付き御免色里を巡って裏柳生の忍者と白刃を交え、一瞬のうちに三人を倒す剣技の持ち主誠一郎も高尾のおかげで性技にも磨きがかかった。高尾に惚れられもう一人の遊女勝山(裏柳生の女忍者)にも惚れられるという羨ましい男だ。鮮やかな剣さばきと女さばきに堪能した。
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デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場13番札所浅草寺(せんそうじ)」

2009-03-05 13:23:26 | 旅行

           
 東京都内で唯一の坂東三十三箇所観音霊場札所である。東京見物の目玉といえる観光地でもある。
 推古天皇36年(628年)宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていた檜前浜成(ひのくまのはまなり)竹成(たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人土師中知(はじのなかとも、この人物の氏名には諸説あり)は出家し、屋敷を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。
 観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像であるといわれるが公開されることのない秘仏のため、その実体は不明というほかない。その後大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めたという。さらに平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧慈覚大師円仁が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人びとが拝むための像)の観音像を造ったという。これらのことから浅草寺では勝海を開基(創立者)、円仁を中興開山と称している。
 雷門や仁王門は天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に創建したとの伝えがありこの頃に寺観が整ったものと思われる。上記のようにウィキペディアに記載がある。
 この日は快晴に恵まれ、修学旅行の生徒や英語、フランス語、中国語、韓国語などが交じり合った言葉が聞こえ外国からの観光客で賑わっていた。
 雷門の前の車道には、人力車があり歩道には交番があってお巡りさんが立ち番をしていた。ここの英語表示が、KOBANでKOUBANでないのが解せなかったが、欧米人はコバンと発音するためかもしれないと思い直した。
             
             
 雷門の大きな提灯を下げる仁王門から、仲見世の奥に本堂があってここも人であふれていた。
           
           
            本 堂
           
            お馴染の風景
           
            本堂の内部
 本堂の横に木々に囲まれた小さな一角があった。観光客の姿は見えず、ちらほらと日本人や外国人の単独行の人が見えるだけだった。なぜか喧騒から離れてほっと一息つける場所のような気がした。
           
              
           
 そのほかの境内には、木々がほとんど見えない殺風景な景観で、ざわざわとした落ち着かない気分に見舞われた。
           
 境内の端に重用文化財の浅草神社があり、浅草寺の草創に関わった3人を祭神として祀る神社で、明治の神仏分離以降は浅草寺とは別法人になっている。
           
 もう一つの重要文化財二天門は、今年の9月まで工事中で囲いがしてあった。
           
 浅草寺から銀座での昼食会に向かった。現役引退時の会社の同僚三人と18年ぶりの会食は、談笑のうちに時間が流れた。それにしても、そのレストランの客筋は、圧倒的に老若の女性が多かった。近頃、女性が元気だといわれているが、まさにその通りだった。
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デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場27番札所円福寺(えんぷくじ)」

2009-03-01 13:17:12 | 旅行

           
 漁業の町銚子の中心部にあるこの円福寺は、雰囲気のないお寺だ。森に囲まれたイメージを持つ寺の雰囲気という意味だが。やたら地蔵様が多く裏には墓地があって墓石が林立していた。仁王門がない。
           
           
 神亀元年(724年)漁師が十一面観世音菩薩を網ですくい上げ、その後、弘仁年間(810~824年)この地を訪れた弘法大師空海が開眼したという。犬吠埼から観光地化した練り物屋に立ち寄り、値段の高さに見るだけにして帰路についた。
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