昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

スクーリング・・・下宿にて

2005-07-19 14:45:54 | じゃこしか爺さんの想い出話
   下宿にて

  (1)ボリショイバレー団 

 その年の夏には、世界的にも有名なモスクワボリショイバレ-団が初来日した。そして東京公演の日が近付くにつれて街には、ポスターや看板などが大々的に街のあちこちに貼られていた。余り関心のない私たちの下宿内でも何時しか話題に上るようになっていた。その東京公演当日の夜である、余りの蒸し暑さで勉強も手に付かず、かといって食堂のテレビは時間外で見る事は出来ず諦めていた矢先だった。隣室の学生が声を掛けて来た。下宿のおばさんに交渉してテレビでのバレー公演の許しを貰ったとのことだった。
 私たちは呼び掛けられたもののそれ程興味がある訳でなかったが、どうせ勉強も手に付かない折だから、クーラーの効いた食堂で一っ時を過ごすのも良いだろうくらいの気持で参加した。なんと其処には殆どの下宿人が集まっていた。
田舎者の私にとっては、バレーの観賞はこの時が初めてであったからどんなことになるのか皆目見当が付かない。しかし演目の「白鳥の湖」の曲は何度も聴いていたから、曲そのものには大いに関心はあった。
 しかし初めてのバレーだったが深く心を打たれた。大仰な表現ながら、楚々たるプリマ(名前は忘れた)の姿は我が脳裡に鮮明に焼き付けられて居て、未だに忘れられないでいる。今の年齢に成るまで、実演やテレビで多くのプリマたちを見て来たが、残念ながら東京の夏の夜にテレビで見た、あの時のボリショイバレー団のあのプリマに優る踊り手には未だお目に掛かっていない。

   (2)納豆
 
 正直云ってこの時まで納豆は日本の国民的食品だとばかりと思っていた。それが或る朝下宿の朝食時に、私のそうした知識はものの見事に覆されてしまった。何故かその朝に出されたお副食が、私たち北海道人と関西方面の下宿人違っていたのである。
 今となっては余り記憶も正しくないが、確かに関西の下宿人には佃煮が付いていたと思う。その事を不満顔で問い質すと関西人は納豆が苦手であるという。私たちにしてみれば納豆は栄養価の点からも最高の朝のお副食と思って来ただけに腑に落ちなかった。
 理由は「ネバネバヌルヌルと匂い」だというが、これこそ納豆の美味さの根本だと譲らず、その後も両者の言い合いは果てし無く、登校間際まで続いたが結論は付かず、時間切れ引き分けで終わってしまった。外人ならともかく、日本人の中にも納豆を食べられない者が居る事を、その朝初めて知ったのである。
 
  (3)誕生祝い
 
 特に親しくしていた六人の中で妻帯者は私だけだった。ある日突然電報が届いた。それは妻からのもので、私の誕生日を祝う電報だったのである。しかしそれを知った仲間達は不安げにその内容を色々な思惑で訊ねてきた。それが私の誕生の祝電と知ると、彼らの不安は一気にほぐれ、今度は一挙に私の誕生会の話になり、六人の仲間が有り合せの金子を持ち寄り、祝ってくれる事になった。私もそのお返しにビール一ダースを買った。
 祝いの会は私自身が良いように、みんなの酒の肴にされて続いた。かなり興が弾んだ挙句に、夜の街に繰り出す話が纏まり新宿へと出かけた。
とにかく東京の夜は怖いと聞いていたが、多勢の勢いからか全く物怖じもせ
ず、暗い新宿駅のガード下をくぐった。真っ直ぐ進めば「新宿コマ劇場」や「伊勢丹」に続くと聴かされていたガード下界隈は、今と違って怖いくらいの暗がりであった。それでも小さな行灯や粗末な暖簾が下がった酒場が、数件並ぶのを見つけた。
 その辺りをうろついていると「あんた達学生さんでしょう・・・学生さんは安くしときますよ」との声に、意を決してぞろぞろと入り込んだ。
一応入ったものの、私もそうだったが皆の頭の中も「ぼられる!」と云う強迫観念で占められて落ち着けなかった。三十分も経たない内に其処を飛び出し、駅に向かって一目散に駆け出した。
六週間の在京中夜の街に出たのは、それがただの一度で初めの最後であった。

  ※・続く・・・