※・序章
私が通信大学に入ったのは、夜間高校を卒業した翌年で、昭和32年今から五十年近くも前の春の事です。その当時私は三菱砿業所の道央の町にある炭砿事業所に勤務していた。入学を決めたのは、夜学で親しくなった友人の誘いからであった。
前年に結婚していた私には簡単には決められない事情もあったが、妻の強い協力と勧めもあって決断した。
彼が中央大学の法科で私が慶応義塾の英文科だった。私が慶応に決めたのは、福沢諭吉の伝記を読んで以来強く惹かれていたからだった。後年長女が入学した時には、良くぞ親父の意志を継いで呉れたものと喜んだものだが、三学年に進級したにも関わらず、無断であっさり中退してしまった。
入学後は送られて来た夫々の教本を学習し、月一回の割でレポートを提出することになっていた。教科によってはかなり難解なものもあったが、仕事・生活を遣り繰りして、月割りのレポート提出は無事にこなしていた。
やがて七月に入って早々にスクーリングの案内が送られて来た。一番の楽しみにしている、東京本校での授業である。
出発までにはやる事が一杯にあった。先ず職場である。私の場合は前年までの四年間は、夜学への通学で同僚には大きな負担を掛けて来ていたので、今回の期間は六週間と短いが、またまた迷惑を掛けることになるので気は重かった。
しかし直接の上司で勉学に理解のある方の強い励ましが、私の迷いを振り払ってくれた。
Ⅰ・初めての東京
出発は友人と相談して、七月の半ばと決めた。初めての夢にまで憧れていた上京である。いやが上にも心が躍るのを覚えた。
しかし今とは大きく違って、航空便の無い時代の旅行である。上野までの行程が約一昼夜で、青函連絡船でも約四時間半かかり、更に上野までの汽車旅も寝台車とか特別二等車などに乗れる身分でないから、自由車の正に立錐の余地も無いほどに混雑する車中で殆ど眠れぬ夜を過ごした。
朝早くに無事に上野駅に到着した。同行した友人とは在京中での再会を約し駅頭で別れ、お互いの宿泊地へ向かった。
(1)タクシー
私が下宿先として決めていたのは高田馬場の諏訪町である。出発するまでに何度も何度も繰返し目をとおして頭に叩き込んだ筈なのに、いざ駅前に立つとさっぱり様子がつかめず、結局はタクシーを拾うのが安全とばかりに乗り込んだ。
確かに駅から近い筈なのにかなり走ったのに一向に着く気配が無く、更に先へ先へと進もうとする様子に不安を感じて「駅から近いと聞いていたのですが・・・諏訪町はこんなに遠いのですか」と恐る恐る訪ねた。帰って来た言葉は「神田の諏訪町でしょう。未だ先ですよ」これにはビックリ「行く先は高田馬場の諏訪町です」運転手の態度は余りにも白々しかった。初めからポット出の田舎者と見越してのことだった。上京早々にとんだ失態バカを見たものである。
正に東京は「生き馬の目を抜く」と実感、自らを戒めた。
Ⅱ・下宿
下宿先に割り当てられたのは、昼間の普通科の学生が夏休みで帰省した後の下宿屋である。六畳一間に二名が宛がわれた。同じ北海道室蘭からの同年輩の方だった。其処の下宿屋には主に北海道の学生が割り当てられたようで、道内各地から来ていた。下宿人の中でも特に気が合って親しくしたのは同年輩の六人だった。
毎度の食事や通学はもとより、抜け出して喫茶店などへ出掛ける時も大抵この六人が一緒だった。
毎日がワイワイと楽しく過ごしていたが、夜の暑さには北海道の連中だけは根をあげていた。特に私の場合は樺太生まれで寒さには自信はあったが、暑いのにはからっきし弱く一番先に参っていた。それに朝食に出される胡瓜の味噌汁は苦手だった。何とも言え無い青臭さが気になり喉を通らなかった。
胡瓜そのものは決して嫌いではなく、むしろ子どもの頃から好きな野菜で、生のまま味噌をつけて丸ごと齧り付いたり、また酢物などは好物である。ただこの胡瓜の味噌汁だけは、生まれて初めてのことだったので中々馴染めなかった。
しかし他に食べる物が数多く有る訳でもないから、何時の間にか食べられるようになっていた。だから今では平気で食べられるが、妻はこの青臭さがダメらしく我が家の食卓には殆ど出て来ない。
同宿人とはウマが合い勉強も遊びも一緒だった
※ 続く・・・
私が通信大学に入ったのは、夜間高校を卒業した翌年で、昭和32年今から五十年近くも前の春の事です。その当時私は三菱砿業所の道央の町にある炭砿事業所に勤務していた。入学を決めたのは、夜学で親しくなった友人の誘いからであった。
前年に結婚していた私には簡単には決められない事情もあったが、妻の強い協力と勧めもあって決断した。
彼が中央大学の法科で私が慶応義塾の英文科だった。私が慶応に決めたのは、福沢諭吉の伝記を読んで以来強く惹かれていたからだった。後年長女が入学した時には、良くぞ親父の意志を継いで呉れたものと喜んだものだが、三学年に進級したにも関わらず、無断であっさり中退してしまった。
入学後は送られて来た夫々の教本を学習し、月一回の割でレポートを提出することになっていた。教科によってはかなり難解なものもあったが、仕事・生活を遣り繰りして、月割りのレポート提出は無事にこなしていた。
やがて七月に入って早々にスクーリングの案内が送られて来た。一番の楽しみにしている、東京本校での授業である。
出発までにはやる事が一杯にあった。先ず職場である。私の場合は前年までの四年間は、夜学への通学で同僚には大きな負担を掛けて来ていたので、今回の期間は六週間と短いが、またまた迷惑を掛けることになるので気は重かった。
しかし直接の上司で勉学に理解のある方の強い励ましが、私の迷いを振り払ってくれた。
Ⅰ・初めての東京
出発は友人と相談して、七月の半ばと決めた。初めての夢にまで憧れていた上京である。いやが上にも心が躍るのを覚えた。
しかし今とは大きく違って、航空便の無い時代の旅行である。上野までの行程が約一昼夜で、青函連絡船でも約四時間半かかり、更に上野までの汽車旅も寝台車とか特別二等車などに乗れる身分でないから、自由車の正に立錐の余地も無いほどに混雑する車中で殆ど眠れぬ夜を過ごした。
朝早くに無事に上野駅に到着した。同行した友人とは在京中での再会を約し駅頭で別れ、お互いの宿泊地へ向かった。
(1)タクシー
私が下宿先として決めていたのは高田馬場の諏訪町である。出発するまでに何度も何度も繰返し目をとおして頭に叩き込んだ筈なのに、いざ駅前に立つとさっぱり様子がつかめず、結局はタクシーを拾うのが安全とばかりに乗り込んだ。
確かに駅から近い筈なのにかなり走ったのに一向に着く気配が無く、更に先へ先へと進もうとする様子に不安を感じて「駅から近いと聞いていたのですが・・・諏訪町はこんなに遠いのですか」と恐る恐る訪ねた。帰って来た言葉は「神田の諏訪町でしょう。未だ先ですよ」これにはビックリ「行く先は高田馬場の諏訪町です」運転手の態度は余りにも白々しかった。初めからポット出の田舎者と見越してのことだった。上京早々にとんだ失態バカを見たものである。
正に東京は「生き馬の目を抜く」と実感、自らを戒めた。
Ⅱ・下宿
下宿先に割り当てられたのは、昼間の普通科の学生が夏休みで帰省した後の下宿屋である。六畳一間に二名が宛がわれた。同じ北海道室蘭からの同年輩の方だった。其処の下宿屋には主に北海道の学生が割り当てられたようで、道内各地から来ていた。下宿人の中でも特に気が合って親しくしたのは同年輩の六人だった。
毎度の食事や通学はもとより、抜け出して喫茶店などへ出掛ける時も大抵この六人が一緒だった。
毎日がワイワイと楽しく過ごしていたが、夜の暑さには北海道の連中だけは根をあげていた。特に私の場合は樺太生まれで寒さには自信はあったが、暑いのにはからっきし弱く一番先に参っていた。それに朝食に出される胡瓜の味噌汁は苦手だった。何とも言え無い青臭さが気になり喉を通らなかった。
胡瓜そのものは決して嫌いではなく、むしろ子どもの頃から好きな野菜で、生のまま味噌をつけて丸ごと齧り付いたり、また酢物などは好物である。ただこの胡瓜の味噌汁だけは、生まれて初めてのことだったので中々馴染めなかった。
しかし他に食べる物が数多く有る訳でもないから、何時の間にか食べられるようになっていた。だから今では平気で食べられるが、妻はこの青臭さがダメらしく我が家の食卓には殆ど出て来ない。
同宿人とはウマが合い勉強も遊びも一緒だった
※ 続く・・・
短い期間でしたが、スクーリングでの体験が後々大変役立ちました。
因みに老妻は旭川の在の生まれで、どちらかというと野菜党で、私は生粋の浜っ子の魚党でしたから、野菜には随分苦労しました。今ではセロリー以外の野菜なら何でも食べられるようになりました。しかしあの時の胡瓜には閉口しました。
身一つで樺太から引き揚げて来たのですから、苦労するのは当り前と思っておりました。ですから恥ずかしいことながら小学校中退です。しかしそんな事を少しも恨んでおりません。その時の苦労が私の素地となっている訳ですから・・・向かって右側の半袖シャツが私です。当時50キロ割っていました。
とってもいい写真ですねっ。
凄く綺麗だなぁ。
NHKのドラマのようです(* ̄▽ ̄*)
熊子さんが言うように、じゃこしかさんの青春の一ページ
と言う感じが、物凄く伝わってきます。
やっぱり、写真って良い物ですね(^^*)
お褒め頂き恐縮しております。でもとても嬉しいですよ。最近特に昔の事が、色々と懐かしく思い出されて来るのです。
やはり年齢の所為でしょうか。
沖縄からはお帰りでしたか。お元気で戻られ何よりです。