昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

想い出のスクーリング・Ⅵ・

2005-07-23 20:38:08 | じゃこしか爺さんの想い出話
  Ⅴ・帰省
スクーリングの各教科を締めくくる最終試験は、第二外国語を落としたのみで、後の教科はギリギリながらも及第点を確保して全教科の試験を終えた。
いざ帰省の段となると帰心矢の如しで、あれほど楽しんでいた東京生活はまるで嘘のように色褪せていた。それぞれの下宿人たちは修了式の後直ぐにでも帰省の途に付けるようにと、荷造りなどに朝食もそこそこに取り掛かっていた。
荷造った荷物の内手荷物意外の夜具などは、登校前に高田馬場駅からチッキでそれぞれの郷里に送る手はずとしていた。
仲間との別れは学内でするのは無理なので、荷造りの終わった時点で食堂に集まり、仲間六人の世話役S君の音頭でお互い手を取り合って、それぞれの別れの言葉を交し合った。
学内での解散式を無事に終えた私はただ一人、東北線に乗るべく上野駅へ向かった。東北線のホームには夕方六時発の青森行き夜行列車の乗客で溢れていた。
無事に乗車が出来るか如何かとても心配だったが、発車間際に何とか乗り込む事が出来た。しかし座席など取れる訳も無く、また床に座り込むまでの余裕の無いほどの混みようだったから、結局立ったままで夜を明かす破目となった。仙台に到着してようやく席を確保することが出来た。

 ※・終章・・・決断

帰省後職場に戻った私を待っていたものは、連日の早出残業でも追い付かないの量の業務だった。その頃の私の職場は三菱砿業を代表する程の炭砿事業所の厚生課で、いわば事業所従業員の生活物資の販売所で一般的には配給所と呼ばれていた。この配給所は集落毎に設けられていて、その集落名で「○○配給所」と呼ばれ、事業所全体で大小合わせて十三ほど在ったと思う。
私たち職場は他の事業所従業員などが浮かれて遊ぶ、お祭りやお盆などの休暇は短縮され、年末もギリギリ大晦日まで勤務させられた。この事は病院と同じで労働争議などでのストライキからも、保安要員として参加を免除されていた。ちょうどスクーリングの期間が、年間で年末に次ぐ繁忙期のお盆の前後だっただけに、その日一日処理出来なかった未処理伝票が繰越されて山となっていたのだ。
当然私だけで済ませる仕事では無かったが、昨年までの夜間高校と今回のスクーリングでも、多くの同僚に迷惑を掛けて来た手前も有っので、一人でこなすには多少無理とは判っていたが、私一人で引き受けることにした。
そんなことが重なり、各科目のレポート提出期限が大幅にずれて仕舞い、どう足掻いても追い付かないほどに貯まった、その上に学業に対する自分自身の能力にも限界を感じ始めていた矢先だったので、これが潮時と諦め通信教育そのものを辞めることを決断した。そろそろ年末繁忙期に差し掛かる頃でもう直ぐ早出残業日々が始まろうとしていた。
スクーリングを振り返ってみると、良い友人にも恵まれ正に「良く学び!よく遊んだ!」充実した六週間であったと満足している。


                                 ・・・終・・・