MEDINT(医療通訳研究会)便り+

医療通訳だけでなく、広く在住外国人のコミュニケーション支援について考えていきます。

通訳者を「使う」

2016-07-26 00:00:00 | 通訳者のつぶやき
日本渡航医学会の学術集会が終わりました。

私は一般演題の中で、外国人模擬患者を使った接遇トレーニングの
プログラムについてご紹介しました。

助産師教育の話だったので、
医師の多い当学会では少し反応が薄かったのが残念でした。
ただ、毎回挑戦的な演題を出し続ける歯科医のT先生のような方もいらっしゃるので、
学際的な様々な演題を排除せず受け入れる学会の自由な雰囲気は貴重です。

その中で座長をしてくださった公立甲賀病院の井田健先生からご質問をいただきました。

質問は私が説明の中で何度も

通訳の「使い方」
通訳を上手に「使う」

と道具のように通訳を「使う」と表現したことに
違和感があるとのことでした。

長年にわたって、医療通訳についてご意見を述べられ、
ご自分の病院でも医療通訳制度を作られた先生だからこその
ご質問であったと思います。

先生は医療通訳者と医師を結び付けてくださった
私にとっては恩人でもあります。

では、私がこの質問にどう答えたかというと、

まず「ああ、こうしたコメントがもらえる時代になった」のだと
しみじみと感じました。

なぜなら、これまで私は
医療通訳者は心を持った専門職であり
外国人医療においてはチームの一員として
重要な役割を担うことができると主張してきたからです。
つまり、「道具ではないぞ!」という認識です。

医療通訳者の役割として
最近では倫理規定や厚生労働省の教科書などでも
明確にいわれていることです。

それと同時に
私は通訳者としての美学みたいなものを持っています。
「通訳者がいないと思うくらい、コミュニケーションが進む」状態が
私にとっては理想なのです。

スペイン語圏は英語圏の人たちとは違い
日本社会に遠慮しながら生きていると感じます。
通訳を使うことで、彼らがいきいきと自分の主張を述べてくれることが私の喜びでもあります。
だから通訳者がしゃしゃりでるのはあまり格好のよいことではない。
そこにいないのではなく、邪魔をしないということです。

でも、日本社会では、
医療通訳者が邪魔をせずにコミュニケーションが進む現場は
まだまだ少ないです。
だから、姿をあらわさざるを得ない場面があるのですが、
それは医療通訳の使い方が医療者に浸透していないからでもあります。
その課題を解決するための接遇トレーニングなので、
私たち通訳者の役割を理解して、
外国人医療のコミュニケーションのイニシアチブを医療者にも持って欲しいというのが
発表の主旨でした。

その場ではうまく回答できなかったのでここで書いてみました。

最後に司馬遼太郎のエッセイの中に「花器」を表現している一文があります。
私はこの花器のような
花を活けてはじめて花も生き己も生きるような通訳者になるのが目標です。

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ちかごろの花器は、自己主張のアクが強すぎるのではないか。
花器は「用」をはなれて存在しない。
花を活けてはじめて花も生き己も生きるというハタラキが「用」の精神というべきものだが、
若い陶芸家にはこれが満足できないらしい。
花を押しのけて自分を主張しようとする。

司馬遼太郎(薔薇の人 「未生」4-11)
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