Fish On The Boat

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『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』

2011-08-31 13:12:01 | 読書。
読書。
『私たちはこうして「原発大国」を選んだ』 武田徹
を読んだ。

事故が起こってからじゃなきゃわからないような愚か者として、
それまではけっこうな距離感をたもちながら、かといって離れすぎずの立場で、
たまーにちらちら気にするくらいの意識で捉えてきた「原発」および「核」に対して、
正面から向き合うように読んでみたのがこの本です。
まぁ、元はと言えば、糸井重里さんが紹介されていたので気になったのです。

核という難しい問題を、木を見て森を見るように書ければいいのでしょうが、
どうやら、木にあたる部分は、量子論など難しすぎてモヤがかかって見えにくいようで。
じゃぁ、森を見ようとすると、あまりに果てしなく入り組んでいるようで、
それらを単純化してしまうのも、本質からかけ離れてしまうから、
著者はそうはしていません。

では、この本はどうやって核の問題を論じているのでしょう。
1954年論というところからはじまっていきます。
つまりは時系列で、そのときそのときの社会の方向性、空気を捉えながら、
原爆以後に始まる核というものに対する日本人の意識の変遷をたどったところもあり、
権力を持つ個人の志向や打算などが政治的に働いていった様を見つめたところもある。
過去の重要な点々をおさえることで、疑問を持つことなく眺めてきた現実の色が変わって見えてきます。
ちょっとしたパラダイムシフトを、過去を忘れた多くの人々や、若い人たちは受けるでしょう。
それだけ、みんなの現実認識ってかなり操作されたものだということのようです。

書かれている内容は、けっこう放縦に見えもし、いろいろな方面、分野に飛んでいくので、
読んでいて核と離れているようだぞと読めるところもありますが、
そこはそこ、大きな気持ちで、著者を信頼して読んでみてください。
ちゃんと核の問題に帰ってきます。
また、思想などのところはちょっと難しかったりもします。
それでも、そういうのって、難しい文章に出くわして何度も読んでいるうちに
読解力が上がったりもしますから、無駄じゃないと思って読んでみてもいいでしょう。

中曽根康弘、正力松太郎などの名前が原発に深く関係するのだなということは
本書を読んで初めて知りました。
地震列島に原発なんて、あまり深く考えられていなくて、
50年代の鼻息荒い時代の気運にのっかっただけの産物だったのかもと思ったりもします。
とはいえ、原発があってこそ、これまで電力に不自由せずに生活してこられたのであって、
一概に否定できないんですよね。
難しいこの原発の問題、エネルギーの問題、みんなで冷静に、長けたディベート術で
いいくるめようっていうんじゃなしに、お互いの心や頭の内を差し出しあって
建設的に案を構築していけたらいいんだけどなーなんて思うところです。
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2 Comments

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Unknown (Reso)
2011-09-01 11:44:05
mask555さんの紹介で、すごく興味が湧く1冊ですね。

原発が日本のエネルギー政策として推進されてきたのは、
2つの理由があると考えています。

1つは資源に乏しい国わが日本が、自立したエネルギーの確保として
一番手っ取り早かったのが原子力だったからなのではということ。

これは富国の意味で理解できる話で、
日本の経済発展の後押しの一端を担っていたのは
間違いない事実なのではないかと。

2つめは外交的軍事的牽制の意味合いがあったのでは?という推察。

戦後、日本は軍隊を持たないと宣言したものの、
やはり外交的交渉の背景には軍事力という圧力が
交渉の有利不利を決めていくのは間違いないことですが、
日本は原子力発電といういわば「カタチを変えた核兵器」を所有することで、
「その気になれば核兵器くらいいつでも作れる」という牽制の意味合いも
あったのではないかと推察しています。

誤解をおそれずに言えば、原発と核兵器をニアイコールと考えれば、
軍事産業に利権争いがあるように原発にも利権争いがあったのは必然、
とつじつまが合っていくような気がします。

これはあまり誰も言及していないのであくまで推察にすぎませんが。

単純にエネルギーの確保ということだけであれば、
原子力以外の選択肢を選んだり、
もしくは原子力依存の割合を最小限にするなど、
様々な方法があるはずです。

管理、維持(廃棄物も含む)のことを考えれば、
火力、水力など他の方法よりも圧倒的に効率的
というわけでもないのにです。

地震多発国日本でのリスクのある原発推進というのも懐疑的ですし、
武田邦彦氏によれば浜岡原発などは活断層の真上に建っているという、
理解し難いこともありますし、原発自体がかなりグレー的な存在意義
になっているのを強く感じます。

政府が原発に固執するところをみると、余計にです。

長くなるのでこれ以上はやめますが(充分長いw)、
今まで問題意識の薄かった原発の存在と日本のエネルギーについて
国民全体でトコトン議論するタイミングが今なのかなと思います。
返信する
レス (mask555)
2011-09-02 00:00:26
>Resoさん

うーん、鋭いです!

>1つは資源に乏しい国わが日本が、自立したエネルギーの確保として
>一番手っ取り早かったのが原子力だったからなのではということ。

戦後、10年たったくらいのころ、次世代のエネルギー、未来のエネルギーとして
原子力が注目されたようですね。
最初の頃は、日本各地でウランを探せと読売新聞などがあおり、
実際にウラン鉱山を見つけた人もいたようです。
しかし、原子力に利用するほどの規模ではなく、結局日本では資源確保は難しいということになったようです。
南極調査隊の第一次の隊長がたしか東海村の原発の所長か何かに任命されるのですが、
彼の南極滞在記を読むと、南極でもウランをみつけたとか見つけていないとかで
胸を膨らませていたようです。そういう時代だったんでしょうね。
また、石油が出ない国でありながらエネルギーを生みだせるということに夢を見た、
当時のマス・メディアの重鎮がキャンペーンをはって、
反核の気運を原子力推進のアナウンスでかき消していったようです。
核の軍事利用と民事利用は大部分が重なっているということなので、
民事利用に焦点を当てて生かしてしまえば、
軍事利用も生き残るものだそうです。
アメリカ側の意図もあったそうです。
(とすると、オバマ大統領の核兵器廃絶とかんとかでのノーベル賞受賞と、
その後の原子力発電推進の方針は合いれなくなりますね。
オバマはそんなきれいごとをいっているだけなのでしょうか)


>2つめは外交的軍事的牽制の意味合いがあったのでは?という推察。

日本ではじめて原子炉製造の予算を取ったのが、
当時議員だった中曽根康弘氏だったそうです。
そんな中曽根氏は日本の再軍備への意思を持ち、
核武装論者ともみられていたっていいますから、
Resoさんのご指摘は的を得ているように見受けられます。

ただ、この本を読む限り、原発を作ることで潤ったのは、地方の過疎地だけだったようです。
それでも、援助金がもらえても人口が増えるわけでもなく、
難しい状態がかわるわけでもなかったようです。
それでも、まるで麻薬のように、援助金が欲しいということになり、
増炉要請までした自治体もあったようですね。
そうやって、原発が肥大化していった面もあるでしょう。

また、核廃棄物は処理ができなくて、地中に埋めるしかなく、
しかも今日に至っても、最終処理場すら決まっていないそうで、
そんな見切り発車でやっていたのかと驚いてしまうくらいです。
何が一番問題かって、僕はこの廃棄物が問題だと思うのです。
処理できない有害なごみを出し続けて、未来の世代をひっ迫していく。

いろいろ考え出すとつきないですね。

つまるところ、打算とか志向とかによって出来たものが原発であって、
リスクさえけむにまいて、「作ればいいや」的に作られてきた感があります。
そういうところが、せっかちというか、性急というか、
もっと考え抜いて決断する姿勢を、僕も含めて日本人は身につけたほうがいいかな
と思ったりもします。
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