読書。
『人権読本』 鎌田慧 編著
を読んだ。
2001年刊です。当時の人権意識状況を取り上げて「これがよくないんですよ」というように訴えているのに、この2024年の現代になにひとつはっきりと解決されていない、と知ることになりました。日本の人権意識の低さは深いです。
子どもの人権、高齢者福祉、DV、障がい者、女性労働、過労死、コミュニティ・ユニオン、沖縄米軍基地……など15項目にわたって、人権という権利を見つめていけるように編まれています。
__________
人権というのは感覚がにぶると守られなくなり、人権侵害していても、されていても気がつかなくなることがこわいのだ。(p6)
__________
→先ほども書きましたが、日本人は人権意識が低く、ここに書いてあるような心理状況にあるのかもしれません。なので本書のような、人権について様々な方面から気づきを得ることのできる機会は大切だと思うのでした。
次は、高齢者福祉の章から引用を。
__________
もしも、まわりの人の支えがなければ生きられないようになったり、医療にお金を使うようになった人がまるで悪いことでもしているように世の中から扱われるとしたら、その人や家族はどんなにつらい思いにさらされることだろう。まして、そういう人は生きる価値がないと社会が取り決めてしまったとしたら。その社会は弱い人や障害を持った人や老いた人を排除して健康なものだけの論理がまかり通る、鬼気迫る弱肉強食の社会である。(p23)
__________
→タバコや生活習慣病が健康保険の財務を赤字にしているのだから、医療費削減のためにも禁煙したり運動などの予防に努めたりしていきましょう、という風潮で、昨今の健康意識がつくられているところがあります。それはそれで心理的に節度があれば、つまりそうできない人へ不寛容でなければ、問題はないのかもしれないです。この引用で言われているのは不寛容に陥ったときの人権侵害についてです。そして、SNSでの諸発言のなかには、残念ながらこういった人権侵害の性格の強いものが見受けられることがあります。そればかりか、リアルな生活の場でも、ネット言論に左右されてなのか、人権無視の発言をおおっぴらにする人がいて、僕なんかはちょっと驚くことがあります。人とという存在をどう捉えているか、なんですよね。お金つまり経済のほうに気を取られていると、引用のような論理になっていくでしょう。人というのは経済の枠組みに嵌めていくものだ、と考えてしまうと、どうしてもそうなります。人のほうへ経済をあてはめていくべくデザインするのがいいのに、と僕は考えますが、そこに立ちはだかるのが「市場原理」信奉のように思えます。
また、障がい者や外国人、被差別部落出身者への差別という行為も人権を侵害するものです。
__________
このように、自分たちよりも下にいるものがいなくなると、不安になるひとたちがいる。自分たちが差別されているからこそ、ことさらひとを差別していたいひとたちがいる。ひとを差別する行為は居心地のいい、うしろむきの悪習なのだ。(p143)
__________
→「格差」と「比較」で考えると腑に落ちてくるものがあります。昨今の格差拡大って、民衆レベルでの人権の希薄化にもつながっていそうです。弱肉強食の論理も、下だと見なす者をその位置取りに固定させてしまって、自分は強者なんだ、と安心するためのものとして機能している側面がありそうです。格差はもちろん、他者と比較する行為のほうも流行らなくなればいいのに、という気になりますが、なかなかそれも一筋縄ではいかないような心理のように思えるのが残念なところ。
最後の引用ですが、これ、とても大事なところです! ゆっくり読んでみてください。
__________
逮捕された人は、裁判で証拠に基づいて有罪が立証されるまでは無罪を推定される。それが世界の近代刑事訴訟法の大原則「無罪推定の法理」である。
しかし、日本のメディアは無罪推定の法理を無視し、逮捕=犯人という「有罪断定の報理」に基づいて事件報道を行ってきた。(p175)
__________
→マスコミはずっと、事件の被疑者が有罪になる前からプライバシーを洗いざらい暴き立てて世間に知らしめることをやってきました。僕らは物心がついたときからそんな世界で生きてきましたから、一般人がWEBで私刑をやったり人物特定をしてプライバシーを晒したりすることに抵抗がないのかもしれません。
というところです。
やっぱり人権問題って、民衆レベルでしっかり共有して、身近なものとして正面から「こういうのは駄目だよね」という意識を持たないと変わらないのかもしれませんね。誰かの社会デザインは必要でも、国からのトップダウンでは無理でボトムアップ的な風潮が必要、といいますか。ただまあ、このあたりについて国はあんまり真剣に考えないと感じられます。
面倒くさい問題は、意識の片隅、社会の片隅にポイされちゃいがちです。あるいは人権問題って、正面から見据えることに不安が付きまとうのかもしれない。こういう問題にかかずらっていると、稼げなくなる、お金に縁遠くなる、軋轢を生んで生きにくくなる、などと。避けたいものを逆に見据えてやることで、見えてこなかったものを知れたり学びがあったりするというのは、このあいだNHKの番組で見たジャパニーズ・ホラーゲーム『零』の方法論にもあって、社会問題も似たようなスタンスでいくとよいのでは、との考えに至るのでした。
あと、本書によって戦後賠償が台湾とは解決していないのを知りました(不勉強でした)。だから微妙な関係なんでしょうか。2001年の本書に、北朝鮮と台湾とは解決していないとあって、その後小泉さんが北朝鮮に飛んで正常化宣言したときに北朝鮮とは賠償問題は解決してるのだけれど、台湾はまだでした。サンフランシスコ講和条約で、連合国側は敗戦国・日本から賠償金を取らないと決まったのも忘れてました。そしてアジア諸国への賠償の仕方が、現金ではなくモノや技術で返すというやりかただったのも本書で知りました。それはアメリカが強引に決めたことなのだけれど、日本の儲けになるカラクリになっていたようで驚きです。すべてはソ連対策。反共産主義の太平洋拠点を日本にしたため、そうなったのです。冷戦構造が日本の復活の後押しをしていたんです。
『人権読本』 鎌田慧 編著
を読んだ。
2001年刊です。当時の人権意識状況を取り上げて「これがよくないんですよ」というように訴えているのに、この2024年の現代になにひとつはっきりと解決されていない、と知ることになりました。日本の人権意識の低さは深いです。
子どもの人権、高齢者福祉、DV、障がい者、女性労働、過労死、コミュニティ・ユニオン、沖縄米軍基地……など15項目にわたって、人権という権利を見つめていけるように編まれています。
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人権というのは感覚がにぶると守られなくなり、人権侵害していても、されていても気がつかなくなることがこわいのだ。(p6)
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→先ほども書きましたが、日本人は人権意識が低く、ここに書いてあるような心理状況にあるのかもしれません。なので本書のような、人権について様々な方面から気づきを得ることのできる機会は大切だと思うのでした。
次は、高齢者福祉の章から引用を。
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もしも、まわりの人の支えがなければ生きられないようになったり、医療にお金を使うようになった人がまるで悪いことでもしているように世の中から扱われるとしたら、その人や家族はどんなにつらい思いにさらされることだろう。まして、そういう人は生きる価値がないと社会が取り決めてしまったとしたら。その社会は弱い人や障害を持った人や老いた人を排除して健康なものだけの論理がまかり通る、鬼気迫る弱肉強食の社会である。(p23)
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→タバコや生活習慣病が健康保険の財務を赤字にしているのだから、医療費削減のためにも禁煙したり運動などの予防に努めたりしていきましょう、という風潮で、昨今の健康意識がつくられているところがあります。それはそれで心理的に節度があれば、つまりそうできない人へ不寛容でなければ、問題はないのかもしれないです。この引用で言われているのは不寛容に陥ったときの人権侵害についてです。そして、SNSでの諸発言のなかには、残念ながらこういった人権侵害の性格の強いものが見受けられることがあります。そればかりか、リアルな生活の場でも、ネット言論に左右されてなのか、人権無視の発言をおおっぴらにする人がいて、僕なんかはちょっと驚くことがあります。人とという存在をどう捉えているか、なんですよね。お金つまり経済のほうに気を取られていると、引用のような論理になっていくでしょう。人というのは経済の枠組みに嵌めていくものだ、と考えてしまうと、どうしてもそうなります。人のほうへ経済をあてはめていくべくデザインするのがいいのに、と僕は考えますが、そこに立ちはだかるのが「市場原理」信奉のように思えます。
また、障がい者や外国人、被差別部落出身者への差別という行為も人権を侵害するものです。
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このように、自分たちよりも下にいるものがいなくなると、不安になるひとたちがいる。自分たちが差別されているからこそ、ことさらひとを差別していたいひとたちがいる。ひとを差別する行為は居心地のいい、うしろむきの悪習なのだ。(p143)
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→「格差」と「比較」で考えると腑に落ちてくるものがあります。昨今の格差拡大って、民衆レベルでの人権の希薄化にもつながっていそうです。弱肉強食の論理も、下だと見なす者をその位置取りに固定させてしまって、自分は強者なんだ、と安心するためのものとして機能している側面がありそうです。格差はもちろん、他者と比較する行為のほうも流行らなくなればいいのに、という気になりますが、なかなかそれも一筋縄ではいかないような心理のように思えるのが残念なところ。
最後の引用ですが、これ、とても大事なところです! ゆっくり読んでみてください。
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逮捕された人は、裁判で証拠に基づいて有罪が立証されるまでは無罪を推定される。それが世界の近代刑事訴訟法の大原則「無罪推定の法理」である。
しかし、日本のメディアは無罪推定の法理を無視し、逮捕=犯人という「有罪断定の報理」に基づいて事件報道を行ってきた。(p175)
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→マスコミはずっと、事件の被疑者が有罪になる前からプライバシーを洗いざらい暴き立てて世間に知らしめることをやってきました。僕らは物心がついたときからそんな世界で生きてきましたから、一般人がWEBで私刑をやったり人物特定をしてプライバシーを晒したりすることに抵抗がないのかもしれません。
というところです。
やっぱり人権問題って、民衆レベルでしっかり共有して、身近なものとして正面から「こういうのは駄目だよね」という意識を持たないと変わらないのかもしれませんね。誰かの社会デザインは必要でも、国からのトップダウンでは無理でボトムアップ的な風潮が必要、といいますか。ただまあ、このあたりについて国はあんまり真剣に考えないと感じられます。
面倒くさい問題は、意識の片隅、社会の片隅にポイされちゃいがちです。あるいは人権問題って、正面から見据えることに不安が付きまとうのかもしれない。こういう問題にかかずらっていると、稼げなくなる、お金に縁遠くなる、軋轢を生んで生きにくくなる、などと。避けたいものを逆に見据えてやることで、見えてこなかったものを知れたり学びがあったりするというのは、このあいだNHKの番組で見たジャパニーズ・ホラーゲーム『零』の方法論にもあって、社会問題も似たようなスタンスでいくとよいのでは、との考えに至るのでした。
あと、本書によって戦後賠償が台湾とは解決していないのを知りました(不勉強でした)。だから微妙な関係なんでしょうか。2001年の本書に、北朝鮮と台湾とは解決していないとあって、その後小泉さんが北朝鮮に飛んで正常化宣言したときに北朝鮮とは賠償問題は解決してるのだけれど、台湾はまだでした。サンフランシスコ講和条約で、連合国側は敗戦国・日本から賠償金を取らないと決まったのも忘れてました。そしてアジア諸国への賠償の仕方が、現金ではなくモノや技術で返すというやりかただったのも本書で知りました。それはアメリカが強引に決めたことなのだけれど、日本の儲けになるカラクリになっていたようで驚きです。すべてはソ連対策。反共産主義の太平洋拠点を日本にしたため、そうなったのです。冷戦構造が日本の復活の後押しをしていたんです。