読書。
『戦略がすべて』 瀧本哲史
を読んだ。
著者の瀧本氏は昨年急逝されました(ご冥福をお祈りいたします)。
根本から物事をみて、ドラスティックに方策を生みだすような印象を、
あまり存じ上げないながらも瀧本氏には持っていましたが、
本書を読んで、やっぱりそういう方だったなあ、と
しっかり確認したようにもなりました。
ただ、「戦略がすべて」といわれても、この資本主義世界、いや、
グローバルな競争社会、ましてや衰退する日本社会に居て、
その中でうまく泳いでいく方法をわかろうとすることには、
僕はけっこうな抵抗を感じるタイプなんです。
なんていうか、そもそも世の中の仕組みを疑っているところがあるんです。
本書は、著者が24のケースを分析し、
快刀乱麻にそれらの多様なケースで勝つための方程式を
それぞれに編みだし解説していく。
つまり、この世の中の仕組みを疑うなんて野暮であって、
その前提は崩さずにうまくやっていこうとするスタンスのように
最初は思えたのですが、
読み進めていくと、そういう狭い意味での戦略もありながら、
もっと大きな枠組みでの戦略も「いいよ、考えなさい、やりなさい」と
しているふうでもあるのでした。
要は、どんな次元の問題であってもいいから、
戦略をもって事に臨むように、というんですね。
なので、世の中の仕組みを改善したところがあるならば、
そこも、戦略を持って臨むならば、著者は何も文句は言わないでしょう。
そういう意味で、著者は戦略というものをピュアに扱っていると言えます。
「戦略」ってどういう位置付けになるんだろう、
と思う方もたくさんいらっしゃると思います。
まず、「戦略」があって、次に「作戦」があり、最後に「戦術」がきます。
このあたりも、最後の章で著者が整理してくれているので、読んでみるとより詳しく学べます。
「戦術」というのは、現場のことでの動き方だとか仕事の仕方です。
日本人はこの「戦術」ばかりは長けているのだそうです。
言われてみるとそうかなあという気がします。
現場は優秀なのに、管理したり方針を決めたりするデスクワークの側に力が無い、
というのはよく言われますしね。
「作戦」は現場での目標として設定されるようなものでしょう。
そして「戦略」は、大局をみて決めていくものです。
既存のルールや価値観にしばられず、新しい考え方で競争に勝っていくためのもの。
それは、たとえば駅伝なんかのように、
同じ道をみんなで走って競争するようなイメージとは違う。
新しいルートをつくるのもありだし、競技のルールを変えてしまうのもあり。
それこそが、実際の、この世界競争社会での競争のやりかただと言います。
そのために、戦略的思考をできるようになりましょう、と著者は主張するんです。
たしかにそれは言えてるなあと思いました。
24のケースがありますから、さまざまな話題にも触れることができます。
例をだすと、
同時代にノーベル賞受賞者がよくでた大学では、
それぞれ分野が違っても交友できるネットワークがつくれる環境があったといいます。
それが意味することは、イノベーションやその元になる画期的なアイデアを生みだすのは、
異分野に属する者同士での交流にあるようだ、という答えです。
また、オリンピックが今年開催される予定ですけれども、
選手の育成のためには、コーチの育成や練習施設にたいするあらたな考え方と
その考え方を反映した施設の造営などが効力を持った、という話。
選手やチームがすごくがんばった、と大会中なんかには
彼らにばかりスポットライトが当たり報道されます。
でも、選手もチームもシステムの一部であって、
より大きなくくりそのものをレベルアップあるいは深化させたことで、
結果が出ていることが述べられていました。
そういったいろいろな話はとても面白いです。
あとは、好い意味でこころに引っかかった点。
それは、自分の考え方、視野の蛸壷化をやわらげたり防いだりするのに、
他者の、自分とは違う思想に触れることが良いとあげられていたところです。
自分と違うものに目をつぶったり、
見てみないふりをしたりするのではなくて、
受けとめてみよ、ということですね。
たまに、口に出していってみて、
「きっとみんな同じような事を考えているのではないかな」と思っていたら、
全然そんなことはなくて面食らうようなときがあります。
さらにいえば、自分が稚拙であることに気づいたりも。
そんなときに、自分の死角があったんだなとハッとするものなんですよねえ。
蛸壷化していたか!と。
でも、場合によっては、
さらに他者の話(異なった意見や思想)を聴いていくと、
自分の考えをもっと詳しく話せば自分の方の正しさが証明できそうだぞ、
なんて逆に思えてくるときもあります。
きちんと論理が伝われば、みんな肯くだろう、と。
(まあ、往々にして、どちらが正しいみたいなのは不毛だったりもしますが。)
だけれども、そういうときにハッとした時点で抱いている自説は、
蛸壷化したものではなくなるのかもしれません。
なぜなら、知らぬものを知り、そのうえで自分の思想を洗い直しているからです。
少なくとも、蛸壷性が緩和していますよね。
また、他者の思想が自分のより陳腐ではないかと思ったとき、
その他者の思想が生まれた背景、
支えている考え方まで思いを巡らしたなら、
それは視野の狭い人のできることではないので、
頑強な蛸壷化ではないのではないのでしょうか。
Win95の頃からネットをやってる者としては、
情報や思想の蛸壷化に関しては、
根深さとともに常に頭のどこかででもいいから念頭にあるようじゃないと
危ないなという気がするんですよね。
ちょっと忘れているとすぐ蛸壷化しますから、ホント。
と言っていても、気付かない部分はきっと蛸壷化しています。
まあ、そういうことも考えながらの読書になりました。
「戦略」ってこういうことを言うんだなあ、と
本書ではじめて気付くことができる人は多そうです。
そういう意味で、
みんなを唸らせるような、将棋でのとても鋭い一手みたいな本だなあと、
拍手して讃えたくなりました。
こういうのは、「創造した」ときっぱりいっていい論説モノです。
解説文とか説明文とかではなくて、
日本人にとっての弱い部分を補強するかのように創造した、というような。
ここまで書けば言うまでもないですけれど、おもしろかったです。
『戦略がすべて』 瀧本哲史
を読んだ。
著者の瀧本氏は昨年急逝されました(ご冥福をお祈りいたします)。
根本から物事をみて、ドラスティックに方策を生みだすような印象を、
あまり存じ上げないながらも瀧本氏には持っていましたが、
本書を読んで、やっぱりそういう方だったなあ、と
しっかり確認したようにもなりました。
ただ、「戦略がすべて」といわれても、この資本主義世界、いや、
グローバルな競争社会、ましてや衰退する日本社会に居て、
その中でうまく泳いでいく方法をわかろうとすることには、
僕はけっこうな抵抗を感じるタイプなんです。
なんていうか、そもそも世の中の仕組みを疑っているところがあるんです。
本書は、著者が24のケースを分析し、
快刀乱麻にそれらの多様なケースで勝つための方程式を
それぞれに編みだし解説していく。
つまり、この世の中の仕組みを疑うなんて野暮であって、
その前提は崩さずにうまくやっていこうとするスタンスのように
最初は思えたのですが、
読み進めていくと、そういう狭い意味での戦略もありながら、
もっと大きな枠組みでの戦略も「いいよ、考えなさい、やりなさい」と
しているふうでもあるのでした。
要は、どんな次元の問題であってもいいから、
戦略をもって事に臨むように、というんですね。
なので、世の中の仕組みを改善したところがあるならば、
そこも、戦略を持って臨むならば、著者は何も文句は言わないでしょう。
そういう意味で、著者は戦略というものをピュアに扱っていると言えます。
「戦略」ってどういう位置付けになるんだろう、
と思う方もたくさんいらっしゃると思います。
まず、「戦略」があって、次に「作戦」があり、最後に「戦術」がきます。
このあたりも、最後の章で著者が整理してくれているので、読んでみるとより詳しく学べます。
「戦術」というのは、現場のことでの動き方だとか仕事の仕方です。
日本人はこの「戦術」ばかりは長けているのだそうです。
言われてみるとそうかなあという気がします。
現場は優秀なのに、管理したり方針を決めたりするデスクワークの側に力が無い、
というのはよく言われますしね。
「作戦」は現場での目標として設定されるようなものでしょう。
そして「戦略」は、大局をみて決めていくものです。
既存のルールや価値観にしばられず、新しい考え方で競争に勝っていくためのもの。
それは、たとえば駅伝なんかのように、
同じ道をみんなで走って競争するようなイメージとは違う。
新しいルートをつくるのもありだし、競技のルールを変えてしまうのもあり。
それこそが、実際の、この世界競争社会での競争のやりかただと言います。
そのために、戦略的思考をできるようになりましょう、と著者は主張するんです。
たしかにそれは言えてるなあと思いました。
24のケースがありますから、さまざまな話題にも触れることができます。
例をだすと、
同時代にノーベル賞受賞者がよくでた大学では、
それぞれ分野が違っても交友できるネットワークがつくれる環境があったといいます。
それが意味することは、イノベーションやその元になる画期的なアイデアを生みだすのは、
異分野に属する者同士での交流にあるようだ、という答えです。
また、オリンピックが今年開催される予定ですけれども、
選手の育成のためには、コーチの育成や練習施設にたいするあらたな考え方と
その考え方を反映した施設の造営などが効力を持った、という話。
選手やチームがすごくがんばった、と大会中なんかには
彼らにばかりスポットライトが当たり報道されます。
でも、選手もチームもシステムの一部であって、
より大きなくくりそのものをレベルアップあるいは深化させたことで、
結果が出ていることが述べられていました。
そういったいろいろな話はとても面白いです。
あとは、好い意味でこころに引っかかった点。
それは、自分の考え方、視野の蛸壷化をやわらげたり防いだりするのに、
他者の、自分とは違う思想に触れることが良いとあげられていたところです。
自分と違うものに目をつぶったり、
見てみないふりをしたりするのではなくて、
受けとめてみよ、ということですね。
たまに、口に出していってみて、
「きっとみんな同じような事を考えているのではないかな」と思っていたら、
全然そんなことはなくて面食らうようなときがあります。
さらにいえば、自分が稚拙であることに気づいたりも。
そんなときに、自分の死角があったんだなとハッとするものなんですよねえ。
蛸壷化していたか!と。
でも、場合によっては、
さらに他者の話(異なった意見や思想)を聴いていくと、
自分の考えをもっと詳しく話せば自分の方の正しさが証明できそうだぞ、
なんて逆に思えてくるときもあります。
きちんと論理が伝われば、みんな肯くだろう、と。
(まあ、往々にして、どちらが正しいみたいなのは不毛だったりもしますが。)
だけれども、そういうときにハッとした時点で抱いている自説は、
蛸壷化したものではなくなるのかもしれません。
なぜなら、知らぬものを知り、そのうえで自分の思想を洗い直しているからです。
少なくとも、蛸壷性が緩和していますよね。
また、他者の思想が自分のより陳腐ではないかと思ったとき、
その他者の思想が生まれた背景、
支えている考え方まで思いを巡らしたなら、
それは視野の狭い人のできることではないので、
頑強な蛸壷化ではないのではないのでしょうか。
Win95の頃からネットをやってる者としては、
情報や思想の蛸壷化に関しては、
根深さとともに常に頭のどこかででもいいから念頭にあるようじゃないと
危ないなという気がするんですよね。
ちょっと忘れているとすぐ蛸壷化しますから、ホント。
と言っていても、気付かない部分はきっと蛸壷化しています。
まあ、そういうことも考えながらの読書になりました。
「戦略」ってこういうことを言うんだなあ、と
本書ではじめて気付くことができる人は多そうです。
そういう意味で、
みんなを唸らせるような、将棋でのとても鋭い一手みたいな本だなあと、
拍手して讃えたくなりました。
こういうのは、「創造した」ときっぱりいっていい論説モノです。
解説文とか説明文とかではなくて、
日本人にとっての弱い部分を補強するかのように創造した、というような。
ここまで書けば言うまでもないですけれど、おもしろかったです。