「ありがとうございました」
運転手さんに挨拶をして、リョウスケはただひとり、〝スクールバス〟とみんなが呼んでいるワゴン車から降りた。紅葉が深まる山間の、彼の家のある地区が終点だ。もとは化成工場の敷地だった空き地を、バスはぐるりと弧を描き、砂利をザザザッとタイヤで掻きならしながら、きらきらした夕明りの中、引き返していった。
今日も放課後は図書室に長居した。六時間目の授業が終わると、クラスメイトの多くは待ってましたとばかりに一目散に下校していく。
「じゃあね、また明日」簡単な挨拶がクラス内で交わされる。
「なあ、これからおれの家に遊びにこいよ」と誰かが誘ってくれる日もある。そんな日は、友達のお父さんかお母さんが夜にリョウスケの家まで送ってくれる手はずが整っている日だ。
たとえば、午前授業の日には、リョウスケは、ジョウ君やタケシ君がぼくを家に遊びに誘ってくれないかなと淡い期待を抱きつづける。誘ってもらえたときには、その喜びはあふれんばかりだが、その心の中身を表にさらすまいとした。我ながら、さもしく感じたからだ。遊びの誘いに飢えている。でも、自分から遊ぼうとはいえない。
リョウスケには家族がお母さんしかいなくて、お母さんは夜遅くまで仕事をして、たいがい家にはいない。スクールバスを逃すと帰る手段がなかったのだ。つまり、友だちが自らの家にリョウスケを遊びに誘うことは、ちゃんと彼を家に送り届けることとセットだった。だから、たまに、はずみで
「ぼくもそのゲーム、やってみたいなあ」などと、秘めたままにするべきだった、遊びに行きたい、という気持ちが、暗に、表にあらわれることがあったときには、そんなの図々しいよな、という後ろ暗い思いがその裏にぴったり張り付いていないことはなかった。
授業が終わってからスクールバスの発車時刻まで遊ぶにしても、それはそれで中途半端な長さの時間で、ちょうど遊びに気分が乗ってきたかなというところでサヨナラになるものだから歯がゆかった。だから、歯がゆい気分を味わうのがつらくなって、そういうことのないように、いつしか、図書室が放課後のお決まりの避難所になった。その避難所で、読書の合間に、いっこ上のアスミちゃんと声をひそめてあれやこれや話をする。たいていリョウスケは聞き手となって、アスミちゃんの得意なおっかない話を聞かされた。お化けの話、ひとさらいの話、ひとが地球に住めなくなる話、毒虫の話、殺人鬼の話などなど、アスミちゃんの話すおっかない話は、まるで百円回転寿司のメニューのようにバリエーション豊富だった。
リョウスケは家でひとりでいるときが多いから、宇宙人がUFOに乗って人間を誘拐しにくる話を聞いたときには、その日からしばらくの間、帰宅しても、お母さんが帰ってくるまでカーテンを閉じ、暗い部屋の中で息を殺しつつ毛布にくるまってひとりの時間をやりすごすことしかできなくなった。
アスミちゃんは、話の最後にはこちらの目をじっと見据え、能面とでも表現したくなるまっさらな表情になって「だから、気をつけなさい」といい、読みかけだった本の世界に戻っていく。
でも、アスミちゃんの話は、リョウスケにはどう気をつけてよいのかわからないような話ばかりだった。たとえば、毒虫が家に出たら丸めた新聞で叩けばいいといえば、アスミちゃんは、毒虫は寝静まったころに出てくるの、といい、それじゃ、部屋全体をいぶすタイプの殺虫剤を使って、目の前に出てこなくてもそれでやっつければいい、とあらたなアイデアを投げかければ、その毒虫はどんな殺虫剤もきかないの、とどう返しても打ち消されてしまう。
地球に人間が住めなくなる話では、環境汚染でオゾン層が無くなって有毒な殺人宇宙線が降ってくるの、とアスミちゃんはいい、まるで知識のないリョウスケは、でも、先生もお母さんもテレビにでてくる大人たちもそんなこといわないし、心配していないみたいだよ、といえば、大人はあきらめてるの、子どもをパニックにしないように子どもの前ではそんなことはいわないで、大人たちだけのときに本音を出しあって恐れてるの、と返してくる。そして、「だから、気をつけなさい」と締めくくるのだった。
このように、アスミちゃんの話すおっかない話はつねに、とりつくろえない決定的な段階まで進んでいた。でも、気をつければ大丈夫なのかもしれない、という希望を感じさせる「だから、気をつけなさい」が毎度、話の最後にくっつけられることで、深刻さがかなり薄まったのは事実だった。
リョウスケにとって「だから、気をつけなさい」は、その言葉上の意味を愚直に受けとめるというより、現実に戻るためのキーワードとしての役割を持っており、これがなければアスミちゃんを嫌いになっていたんじゃないかと思えたほどだった。
四年生から六年生までをカバーする複式学級のクラスで、スクールバス組は四名だった。リョウスケは四年生でスクールバス組、ジョウ君とタケシ君は六年生で自転車通学組、アスミちゃんは五年生でスクールバス組。小学校からリョウスケの家までは20km近くあり、アスミちゃんの家は12kmくらいだった。
リョウスケは、ワゴンの席でもアスミちゃんといつも同じ後列に座った。もう二人のスクールバス組はリョウスケたちよりも早く降りるため、中列に座った。低学年のスクールバス組の子たちは、リョウスケたちの便よりも早い便で帰るので、いっしょになることはまずなかった。一斉午前授業の日などは、スクールバスのほかに先生の車をつかって、子どもたちを一斉に帰すことがあった。
他愛のない話のなかに、今日もアスミちゃんはおっかない話をひとつ盛り込んだのだったが、でも、リョウスケの気分は、いつもの、怖さで身が引き締まるものとはまったく違って、おっかない話だって上の空だった。なぜなら、お母さんへの、うきうきする報告があったからだ。そして、その報告後にお母さんからある許可をもらわなければならなかった。
築四十年の平屋一戸建てがリョウスケの我が家だった。鍵をあけてするりと家の中に滑りこみすぐさま鍵をかけた。もう初雪が近い時期だったせいで、いくら日光の射しこみの良い家でも、日中、家を空けておくと外とあまり変わらないくらいの室温になっていた。指が引力を感じて吸いつけられるように、リョウスケはまっさきにストーブの点火ボタンを押した。上着はまだ脱げない。居間の隣に位置する自室の机の上にランドセルを置く。その瞬間にだって、明日が待ち遠しくてたまらなかった。
明日は土曜日で、学校は休みだ。そして、はじめて友だちが家に遊びに来るかもしれない。今日の昼休みに同い年のモトヤ君が、
「明日、リョウスケ君の家へ遊びに行っていいかな?自転車で行くから」と突然いい放ったのだった。
自転車通学組のモトヤ君は、リョウスケと同じくお父さんがいなかった。そのかわり年の離れたお兄ちゃんがいて、札幌の親戚の家に居候しながら高校へ通っているらしい。
お兄ちゃんはすごく勉強ができるひとのようで、四年生にあがったころからモトヤ君はそれを自慢し始めた。まるでお兄ちゃんは日本一えらいひとであるかのように、モトヤ君はほめるところで語気を強めて、よく誇った。リョウスケもクラスのみんなも、初めのころは、へえすごいんだね、と素直に応えていた。でも、同じお兄ちゃん自慢を何度も聞かされるし、お兄ちゃんがすごいから自分もえらいんだといっているようにも聞こえて、それが、他にとくに嫌がられるところのないモトヤ君の性格の玉に瑕となっていた。それも可哀想にも少々深めの瑕だった。
だんだん、モトヤ君はクラスメイトに話しかけられる機会が減っていき、リョウスケも、モトヤ君が嫌いになったわけではなかったのだけれども、少し面倒くさくなってしまって好んで話しかけはしなかった。モトヤ君は、そんな周囲の状況の変化に気づかなかったのか意に介さなかったのか、それからもそのまんま相変わらずで、クラスのみんなにはちょっと孤独に見えもしたのだった。
そんな一匹狼めいてしまったモトヤ君が、放課後になるなりリョウスケのもとへやってきたのだ。モトヤ君は、学校から20kmほど遠くにあるリョウスケの家へ自転車で遊びに行っていいかというのだ。リョウスケは一瞬、なにをいわれているのかまったくわからなかった。まるで想定していない意外なことだったからだ。数秒後にやっと言葉の意味をちゃんと呑み込めたとき、悪い気持ちなどはまったく起きなかった。それどころか、来いよ!来いよ!とすぐさまウェルカムな気分になっていた。
たとえ家に来たモトヤ君が、またおきまりのお兄ちゃん自慢を始めたとしたってかまわない。家に友だちが上がる状況を想像すると、頬や耳がほてり、わくわくした。部屋でモトヤ君と話をしたり、ゲームをして遊ぶことを考えると、全身に力がみなぎって、手足がちょっとふるえるほどだった。
ただ、お母さんは土曜日も仕事で家にいないから、友だちを呼んでかまわないかどうか許可をもらわないといけなかった。きっと、いいよといってくれるだろうけれど。
「帰ってからさ、お母さんに訊いて、それから電話するから待ってて」リョウスケは、はやる気持ちを精一杯おさえてやっといった。そして
「お母さん、八時過ぎくらいに帰ってくるから。たぶん大丈夫だと思うけど」とつづけながら、手早く机の中からいつも入れっぱなしの、何かあったとき用のノートを取り出し、一番うしろのページを破って簡単な地図を書いて説明し、モトヤ君に手渡した。モトヤ君は、うんわかった、電話待ってる、と真っすぐな目で応え、じゃあとノートの切れ端をつかんだ手をあげて教室から去っていったのだった。
お母さんが帰ってきて晩ごはんになるまで、まだけっこうな時間があるので、六時過ぎになるとリョウスケは台所に置いてあるちいさな市販のバターロールをひとつ食べた。
いつもなら、ゲームをしたりアニメを見たり宿題をしたりしながら晩ごはんのメニューを夢想して過ごしているのだけれど、今日は帰宅してからずっと、モトヤ君が来る、モトヤ君が来る、と頭の中で繰り返しながら落ち着きなく家じゅうを歩きまわっていた。じっとしているなんてできないし、ましてやゲームやアニメや宿題に集中することだって無理だった。モトヤ君が来る、お母さんにいう、モトヤ君が来る、お母さんにいう。バターロールだって、放し飼いのニワトリみたいに居間をぐるぐると歩きながらかじった。
リョウスケの想像の中では、お母さんは二つ返事で「遊びに来てもらっていいわよ」と許可をくれて、それが嬉しさに花を添えたのだった。
つけっぱなしにしてしまっていたテレビの中では、リョウスケと同じくらいの背格好の子どもたち6人がひな壇に座り、王子様やお姫様を模した安っぽくてけばけばしい派手な衣装を身にまとって話合いをしていた。
進行役のお兄さんが「ひとりでゲームをしているのと、友だちと外で遊ぶのと、どっちがいいかな?その理由も教えて」と質問をした。
一番太った子どもがすばやく手をあげて、
「ぼくはゲームがいいです。お菓子を好きなだけ食べながら一日中ゲームできたらきっと幸せだからです」と答えた。続いてメガネをかけた肩までの髪の女の子も、
「わたしもゲームがいいです。お母さんにもうやめなさいっていわれずに、好きなだけゲームをしてみたい。それくらいゲームが好きです」といった。
彼ら子どもたちのなかでは、ゲーム派は多かった。ゲームじゃなくて漫画を好きなだけ読みたい、という、もともとの質問の選択肢からそれた本音をこぼす子がいて笑いを誘った場面もあったが、友だちと外で遊ぶのがいいとした子はひとりだけだった。
リョウスケは、ひとりでゲームするほうがいいなんてみんなわかってないな、それほどおもしろいものじゃないのに、と心の裡でつぶやき、テレビを消した。リョウスケは、そのテレビで、モトヤ君が遊びに来ることにちょっと水を差されたような気分になったが、モトヤ君といっしょに家でするゲームが、このたびの大きなプランのひとつだったから、明日はゲームもするし、友だちとも遊ぶし、良いとこどりだ、と気持ちをまとめて、やっぱり興奮した気持ちがくじかれることはなかった。
八時をちょっと過ぎた頃に、食品工場からの小型送迎バスのエンジン音が家の前で止まり、お母さんが帰ってきた。玄関まで小走りででてきたリョウスケはいつものように、
「おかえりなさい」といったが、うわずった声で早口になってしまったのはいつもどおりではなかった。
「うん。すぐにごはんにするからね。今日は学校どうだった?」靴を脱ぎながら、お母さんの言葉のほうは普段と変わらない。
リョウスケは、必要な〝間〟と自分の呼吸の合うタイミングを待っていた。そのタイミングは、台所でお母さんが冷蔵庫から野菜類を取りだしているときにやってきた。
「ねえ、お母さん。明日なんだけど」
「なあに?誰か、遊びにおいでっていってくれたの?」
「ううん、そうじゃなくて、あのさ、モトヤ君いるでしょ、同い年の。モトヤ君が自転車で遊びに行っていいかって」
「ええ?モトヤ君の家からうちまで20km以上あるでしょ?小学四年生がそれを自転車で?それは無理よ、危ないし。モトヤ君にはいいっていったの?」
「いや、お母さんに訊いてから電話するっていってある……」
「それじゃ、お母さんから電話してあげるから、さ、リョウスケは先にお風呂にはいっちゃいなさい」
「ねえ、お母さん、ほんとに無理?モトヤ君に遊びに来てほしい……」
「あんた、考えてもごらんなさい。坂の多い20km以上の道のりを自転車でなんて、中学生でもしんどいわよ。疲れてふらふらしているところに車が走ってきたら危ないじゃない」
「でも……」言葉が詰まってしまった。予想していた反応と実際の反応がまったく違い、リョウスケはみるみるしおれて目にはうっすら涙まで浮かんでしまっていた。
「ねえ、リョウスケ、わかって。うちは車がないからモトヤ君を送り迎えできないし、モトヤ君のところもおんなじだから、うちに遊びに来るのは無理よ。学校でバスの時間までいっしょに遊ぶわけにはいかないの?」
「お母さん、わかってないよ。うちに来て遊ぶってことが重要なんだよ。だいたいさ、うちに誰か友だちが遊びに来てくれたことがあったかい?」
リョウスケの涙がすうっと頬を伝った。それでも凛としてまっすぐその場に立ったままのリョウスケをお母さんは抱きしめた。
「ごめんね、リョウスケ。でも、無理はいえないのよ。お母さん、電話しておくから、ね、お風呂に入って機嫌を直して」
リョウスケは胸がきゅうときしむのを感じながら、それからは無言で視界をにじませながら、浴槽に湯を張り、着替えを用意して、これ以上涙を流すまいとしながら、浴室に入った。
湯に浸かって大きく息を吸ったり吐いたりしてみても、切ない感覚は喉の奥に溜まったまま抜けていかなかった。ああ、あんなに楽しみにしていたのになあ!でも、これで普段通りなんだし。別にひどいことが起こったんじゃないんだから。ため息をついて、まるでなにかの手違いでごはんがあたらなかった動物園のパンダみたいに、身体の重さのままに、浴槽に身体をあずけてぐったりとした恰好になった。
風呂あがりの髪を乾かし、パジャマ姿になって居間に出てくると、テーブルに揚げたてのコロッケと野菜サラダの皿が並んでいた。リョウスケはコロッケが大好きだから、悲しみの名残を宿していた心のその窓にやっとあたたかな光が射しこんできたような気持ちになった。
そこへ、お母さんがごはんをよそった茶碗を持って台所からやってきた。
「モトヤ君、来ることになったから。明日の九時には家を出るって。うちに来るまでだいぶ時間がかかりそうよ」
「えっ、ほんと?来るの?」今度は驚きと喜びで声がつかえてしまった。
「そう。電話でモトヤ君のお母さんと話したんだけど、どうしても、っていうのね。モトヤ君、そうとう乗り気みたいだね」
「やったー!」
その日のコロッケは、いつもの何倍もおいしくて、ごはんをおかわりした。キャベツもちゃんと食べなさいといわれて、こっちはがんばって食べたのだった。