読書。
『女子高生の裏社会』 仁藤夢乃
を読んだ。
「JKリフレ」や「JK散歩」などの裏社会のJK産業に携わるをえなくなった少女たち。
彼女らは一体どういういきさつでそういう仕事を選んだのか。
どういった家族環境、学校環境、健康状態の子がいるのか。
個々のインタビューを通じてわかってくる、
少女たちの居場所のなさや大人とのよいつながりのなさ。
このような仕事がはびこるのは、けっして彼女たちだけの責任ではない、
社会にだっておおきな責任があることを見失ってはいけない、
そのようなことが浮かびあがってくるノンフィクション。
まあ最初は、
女子高生のインタビューからJKリフレやらお散歩やらの内容、
裏オプなどの内容をよむと、正直なところ半分勃起してしまいましたよ。
えろいぜ、と思って。
でも、半分くらいのところからほんとにひどい話になってきて、
意識もエロから離れていった。
男は無神経なんですな。
自分自身の野獣の面ってなかなか自覚していないし、
女の心理を勘違いしているところもあるかなと思った。
AVばかり見ているとそうなるのかな?
ばかな世界ですからね、エッチビデオの内容って。
ふたつ前に読んだ『採用基準』には、
自助・共助・公助のうち、共助つまり近所の人だとか友人知人だとかの間での助けあいが
大事になってくると書いてあったのだけれど、
本書『女子高生の裏社会』を読むと、
困窮していたりする彼女らに欠けているものがその共助であることがよくわかる。
現代社会では共助が弱いのです。
そして、もっと共助を大事にしようという声すらあげにくいのです。
なにかあれば「自己責任」って言われるくらいですから。
そういう氷点下レベルの冷たさはもうやめようよって感じで、
『採用基準』の著者は「共助が大事」と言ってくれたかのようで、
それには心は熱くなった。
同様に、本書の著者も、しきりにまともな大人との、
しっかりしたつながりは大事だと説いている。
ぼくはよく自助が大事だとして、
個人での努力でなんとかなるしかないと考えていたのは、
人間不信というか、冷たい社会はなかなか変わらないものだ、
という気持ちが勝っていたからかもしれない。
共助については、大変な環境にある当事者のぼく自身からは、
声の上げにくいことだったかなあと思う。
きっとこの本に登場する少女たちにも、
声のあげにくさの理由として、
「当事者すぎて言えない」というのがある人もいるのではないか。
自分を主張することが、助けを求めることであってさえ、
わがままなことを言っているととられそうで、
それこそ村八分だとか白い目で見られるとか、
そういうことに不安を感じたりするのではと思いました。
まあ、それだけ社会というもの一般が未成熟で、
信頼に足らないものだということを無意識レベルで感じている
ともいえるのですが。
それでも、ひと一人、完璧な考えってもてない。
補ってもらったり助けてもらったりということは、
こういう言説レベルでもあるもんだなあと嬉しくもありますね。
オトコ気なんていうと、
『採用基準』も『女子高生の裏社会』も著者が女性だから失礼になるかもしれないけれど、
よっぽど人のためになることをしてくれているし、その気概を感じますね。
それにしても、JKお散歩だとかしていた子って、
今のことしか考えられないであとで激しく後悔してしまうみたいです。
過去は消えないからなあ・・・。
消えない、どうしようもないような、否定したい過去を持ってしまって苦しむんだから、
今だけ良ければっていう刹那的な生き方はあまり賢くないという。
そこまで考えられない未成熟な年頃だからかわいそうなんだけれども。
しがらまないつながり、共助が大事だとあらためて感じました。
本書では秋葉原でのJK産業に巻き込まれた少女たちを扱っていましたが、
福岡とか仙台などでもあるといいます。
社会の冷たさ、セーフティネットも名ばかりで、親や大人も稚拙だというのが
こういった妙なものが出てくる根っこではないかとも思いました。
『女子高生の裏社会』 仁藤夢乃
を読んだ。
「JKリフレ」や「JK散歩」などの裏社会のJK産業に携わるをえなくなった少女たち。
彼女らは一体どういういきさつでそういう仕事を選んだのか。
どういった家族環境、学校環境、健康状態の子がいるのか。
個々のインタビューを通じてわかってくる、
少女たちの居場所のなさや大人とのよいつながりのなさ。
このような仕事がはびこるのは、けっして彼女たちだけの責任ではない、
社会にだっておおきな責任があることを見失ってはいけない、
そのようなことが浮かびあがってくるノンフィクション。
まあ最初は、
女子高生のインタビューからJKリフレやらお散歩やらの内容、
裏オプなどの内容をよむと、正直なところ半分勃起してしまいましたよ。
えろいぜ、と思って。
でも、半分くらいのところからほんとにひどい話になってきて、
意識もエロから離れていった。
男は無神経なんですな。
自分自身の野獣の面ってなかなか自覚していないし、
女の心理を勘違いしているところもあるかなと思った。
AVばかり見ているとそうなるのかな?
ばかな世界ですからね、エッチビデオの内容って。
ふたつ前に読んだ『採用基準』には、
自助・共助・公助のうち、共助つまり近所の人だとか友人知人だとかの間での助けあいが
大事になってくると書いてあったのだけれど、
本書『女子高生の裏社会』を読むと、
困窮していたりする彼女らに欠けているものがその共助であることがよくわかる。
現代社会では共助が弱いのです。
そして、もっと共助を大事にしようという声すらあげにくいのです。
なにかあれば「自己責任」って言われるくらいですから。
そういう氷点下レベルの冷たさはもうやめようよって感じで、
『採用基準』の著者は「共助が大事」と言ってくれたかのようで、
それには心は熱くなった。
同様に、本書の著者も、しきりにまともな大人との、
しっかりしたつながりは大事だと説いている。
ぼくはよく自助が大事だとして、
個人での努力でなんとかなるしかないと考えていたのは、
人間不信というか、冷たい社会はなかなか変わらないものだ、
という気持ちが勝っていたからかもしれない。
共助については、大変な環境にある当事者のぼく自身からは、
声の上げにくいことだったかなあと思う。
きっとこの本に登場する少女たちにも、
声のあげにくさの理由として、
「当事者すぎて言えない」というのがある人もいるのではないか。
自分を主張することが、助けを求めることであってさえ、
わがままなことを言っているととられそうで、
それこそ村八分だとか白い目で見られるとか、
そういうことに不安を感じたりするのではと思いました。
まあ、それだけ社会というもの一般が未成熟で、
信頼に足らないものだということを無意識レベルで感じている
ともいえるのですが。
それでも、ひと一人、完璧な考えってもてない。
補ってもらったり助けてもらったりということは、
こういう言説レベルでもあるもんだなあと嬉しくもありますね。
オトコ気なんていうと、
『採用基準』も『女子高生の裏社会』も著者が女性だから失礼になるかもしれないけれど、
よっぽど人のためになることをしてくれているし、その気概を感じますね。
それにしても、JKお散歩だとかしていた子って、
今のことしか考えられないであとで激しく後悔してしまうみたいです。
過去は消えないからなあ・・・。
消えない、どうしようもないような、否定したい過去を持ってしまって苦しむんだから、
今だけ良ければっていう刹那的な生き方はあまり賢くないという。
そこまで考えられない未成熟な年頃だからかわいそうなんだけれども。
しがらまないつながり、共助が大事だとあらためて感じました。
本書では秋葉原でのJK産業に巻き込まれた少女たちを扱っていましたが、
福岡とか仙台などでもあるといいます。
社会の冷たさ、セーフティネットも名ばかりで、親や大人も稚拙だというのが
こういった妙なものが出てくる根っこではないかとも思いました。