ネットのコミュニティというかグループというか、
そういうものから弾かれてしまいました。
それでいて、Twitterでは何事もなかったかのように、
外されたことを告げられることなく、知らされることなく、話もなく、
雑談が続いていました。今思えば、ほのめかすようなことが
あったかなぁと思いもします。
気がついた時には、
凍えるような冷気が心中に入り込んできたようで、ハッとしました。
無条件に、自分を責めてみる気持ちが生じてきて、悲しくなりました。
そして、しばらくの間、いつもの6割くらいしか身体に力が入らなくなりました。
これまでにもあの場所から弾かれた人がいることは知っていました。
なんの予告もなしに弾かれてアクセスができなくなるので、
問い合わせのメールが僕に来たくらいです。
僕は、「交渉してください」と、管理人のメールアドを教えたのですが、
管理する側からすれば、「ルールとしていた」の一言で片づけてしまう、
瑣末な件だったのでしょう。
弾かれた人たちは、大なり小なり、心を踏みにじられたんだと思います。
僕は今回、あぁそうか、と身を引きました。関係するSNSはすべて引き払いました。
人の心を傷つけ、踏みにじっても、
「そんなふうに相手が感じているとは思わなかった」
「気付かなかった」「ルールとしていたし」と
片づけるかもしれません。
自分や自分たちのしたいこと、
ひいてはエゴを優先することで切り捨てていくものには
なんの情けも要らないものでしょうか。
人の心を容赦なく踏みつけてでも、自分のエゴを押し通していく、ということでしょうか。
気付くと面倒くさいことになるから、あえて気付かないようにしているのでしょうか。
陽気にワイワイやっていれば、自分たちのすることはすべて
陰湿なんかじゃないって思ってしまうのだろうか。
いや、「陽気にワイワイ」を隠れ蓑に陰湿なことをしてしまうのだろう。
陽気でいることは、陰湿さからもっとも遠いことだって
勘ちがいしがちなんです。イジメなんかはそうですよね、イジメる側は陽気です。
そんな酷いことを陽気にやってやがるのか、って、神経を疑ってしまいます。
あえて陽気にすることでカモフラージュしようとする心理があるのでしょうか?
それイヤですね。
「あの特別な場所は、こういうルールとしていた」だとかと言い訳しようものならば、
陰湿さと怜悧さをルール化して正当化するなと言いたくなる。
ルールという合理性があったとして、合理性ってのはそもそもえらくなんてなくて、
心を蹂躙するものなんです。
合理性を押し進めれば進めるほど、人の心理面に圧迫や無理を与える頻度や大きさは大きくなる。
高名な心理学者である河合隼雄さんは「合理性は心に悪い」って言っていました。
そんな合理性の持つ、心を傷つける性質に加えて、陰湿で怜悧だという性質が
僕を弾いたルールにはあるのです。
「ルールだ」と言われても、「悪いルール、悪法」でしょう。
その「特別な場所」が発足した時に、その悪法に気付かなかったことで、
それに加担してしまったことを僕は大いに反省します。
また、著名人のファンをやるということには、罠が満ちていることが今回わかりました。
鼻高々な気分を望んでいたり、功名心みたいなものがあったり、認知されるというステイタスを
求める気持ちがあったりしがちなのでは、と考え到りました。
また、自分を売り込もう、仲良くなりたい、距離を縮めたい、などもあるのではないか。
それは、最初の心理からはないかもしれないですが、何かがきっかけでエスカレートすると、
そういった徴候が芽生えると思います。
つまり、極めてどろどろした感情があるんです。
それを、綺麗ごとでもって、同じファンを集めて集団を作ろうとして出来があがってみるとどうなのか。
綺麗ごとのオブラートに包まれたどろどろした感情でもって動く集団になるのではないのか。
そして、反対意見を言う人などを、巧妙に遠ざけていくような性格を持ちだすと、もういけない。
裸の王様しかいない集団の出上がりです。
というところで、もういいです。
悲しみの後には、切なさが押し寄せてきます。
人の気持ちを大事にしない集まりは、僕には向いていないようです。
そんなわけで、このブログですが、
少しになるかしばらくになるか、まだわからないのですがお休みします。
読んでくれていた方々、ありがとうございました。
それでは、またの機会に。
そういうものから弾かれてしまいました。
それでいて、Twitterでは何事もなかったかのように、
外されたことを告げられることなく、知らされることなく、話もなく、
雑談が続いていました。今思えば、ほのめかすようなことが
あったかなぁと思いもします。
気がついた時には、
凍えるような冷気が心中に入り込んできたようで、ハッとしました。
無条件に、自分を責めてみる気持ちが生じてきて、悲しくなりました。
そして、しばらくの間、いつもの6割くらいしか身体に力が入らなくなりました。
これまでにもあの場所から弾かれた人がいることは知っていました。
なんの予告もなしに弾かれてアクセスができなくなるので、
問い合わせのメールが僕に来たくらいです。
僕は、「交渉してください」と、管理人のメールアドを教えたのですが、
管理する側からすれば、「ルールとしていた」の一言で片づけてしまう、
瑣末な件だったのでしょう。
弾かれた人たちは、大なり小なり、心を踏みにじられたんだと思います。
僕は今回、あぁそうか、と身を引きました。関係するSNSはすべて引き払いました。
人の心を傷つけ、踏みにじっても、
「そんなふうに相手が感じているとは思わなかった」
「気付かなかった」「ルールとしていたし」と
片づけるかもしれません。
自分や自分たちのしたいこと、
ひいてはエゴを優先することで切り捨てていくものには
なんの情けも要らないものでしょうか。
人の心を容赦なく踏みつけてでも、自分のエゴを押し通していく、ということでしょうか。
気付くと面倒くさいことになるから、あえて気付かないようにしているのでしょうか。
陽気にワイワイやっていれば、自分たちのすることはすべて
陰湿なんかじゃないって思ってしまうのだろうか。
いや、「陽気にワイワイ」を隠れ蓑に陰湿なことをしてしまうのだろう。
陽気でいることは、陰湿さからもっとも遠いことだって
勘ちがいしがちなんです。イジメなんかはそうですよね、イジメる側は陽気です。
そんな酷いことを陽気にやってやがるのか、って、神経を疑ってしまいます。
あえて陽気にすることでカモフラージュしようとする心理があるのでしょうか?
それイヤですね。
「あの特別な場所は、こういうルールとしていた」だとかと言い訳しようものならば、
陰湿さと怜悧さをルール化して正当化するなと言いたくなる。
ルールという合理性があったとして、合理性ってのはそもそもえらくなんてなくて、
心を蹂躙するものなんです。
合理性を押し進めれば進めるほど、人の心理面に圧迫や無理を与える頻度や大きさは大きくなる。
高名な心理学者である河合隼雄さんは「合理性は心に悪い」って言っていました。
そんな合理性の持つ、心を傷つける性質に加えて、陰湿で怜悧だという性質が
僕を弾いたルールにはあるのです。
「ルールだ」と言われても、「悪いルール、悪法」でしょう。
その「特別な場所」が発足した時に、その悪法に気付かなかったことで、
それに加担してしまったことを僕は大いに反省します。
また、著名人のファンをやるということには、罠が満ちていることが今回わかりました。
鼻高々な気分を望んでいたり、功名心みたいなものがあったり、認知されるというステイタスを
求める気持ちがあったりしがちなのでは、と考え到りました。
また、自分を売り込もう、仲良くなりたい、距離を縮めたい、などもあるのではないか。
それは、最初の心理からはないかもしれないですが、何かがきっかけでエスカレートすると、
そういった徴候が芽生えると思います。
つまり、極めてどろどろした感情があるんです。
それを、綺麗ごとでもって、同じファンを集めて集団を作ろうとして出来があがってみるとどうなのか。
綺麗ごとのオブラートに包まれたどろどろした感情でもって動く集団になるのではないのか。
そして、反対意見を言う人などを、巧妙に遠ざけていくような性格を持ちだすと、もういけない。
裸の王様しかいない集団の出上がりです。
というところで、もういいです。
悲しみの後には、切なさが押し寄せてきます。
人の気持ちを大事にしない集まりは、僕には向いていないようです。
そんなわけで、このブログですが、
少しになるかしばらくになるか、まだわからないのですがお休みします。
読んでくれていた方々、ありがとうございました。
それでは、またの機会に。