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1021 真備(岡山県)吉備路にはカタカナの祖真備さん

2022-04-17 19:12:04 | 岡山・広島
高梁(たかはし)川は岡山・鳥取県境を発し、岡山県西部の吉備高原に深い渓谷を刻んで南下、倉敷平野を貫流して瀬戸内海水島灘に注ぐ全長111キロの大河だ。以前、松江から岡山へ、伯備線の「特急やくも」で移動した際には、車窓は常にこの流れと絡み合っていた。中国山地を縦断する、数少ない道筋なのだろう。新見、高梁の街を下った急流が、平野部に出てようやく緩んだ辺りが総社市だ。そして対岸の小盆地が倉敷市の真備町になる。



真備町は2005年に倉敷市に合併・編入されるまで、人口23000人ほどの自治体だった。2018年7月、西日本豪雨がこの一帯も襲い、高梁川の水位が異常に上昇、支流の小田川などの河川が本流に流入できないまま堰き止められる形になり堤防が決壊、濁流が真備町の中心域を襲った。51人が亡くなるという大惨事を、私は連日の報道で痛ましく知るだけだったが、「まびちょう」という町の名に覚えがなく、その位置は特定できなかった。



この吉備路の旅で私たちが真備町を目指したのは、吉備真備の古蹟を訪ねるためである。プランを練りながら、「まび」町が吉備「まきび」の出身地で、町の名はその名前からとった、ということにようやく思い至るという、実に迂闊な私であった。奈良時代の大知性にして大政治家・吉備真備(695-775)は、備中の豪族の出で、遣唐留学生として多方面の知識・文物をもたらし、不安定な奈良朝廷をよく治めたことは中学生の社会科で習う存在だ。



西国街道が裾野を通過する小さな丘が「まきび公園」として整備され、記念館や顕彰碑が建つ。公園の案内には「中国の西安市に真備の記念碑と日本庭園が造られたのを機に、真備ゆかりの当地に建設した」といったことが書いてある。1986年ころの話だ。阿部仲麻呂とともに、玄宗皇帝がその知性を惜しんで帰国させなかったという逸話が残る真備の評価は、今も中国で高いのだろうか。2度目の入唐から帰国する際、真備は鑑真と同行している。



公式的なものではないらしいが、「吉備の5偉人」という括りがあるらしい。真備を筆頭に和気清麻呂、法然、栄西、雪舟である。これらの名前を見れば「県民の総意ではない」という批判は出そうにない。なかでも真備は、呼び名からして吉備の代表格だ。古代の政治家としては菅原道眞が似た経歴だが、道真につきまとうおどろおどろしさは真備にはないし、藤原不比等のような腹黒さも感じられない。だから故郷の尊崇を集めているのだろう。



「真備町」は、1952年に吉備郡の1町4村が合併する際に、新たに生み出された町名だ。吉備真備に由来することはわかるけれど、ではなぜ「まきび町」ではなく「まび町」なのだろう。吉備真備は「きびのまび」と読むのが正しいのだろうか。話は変わるが、私はかねて「古代の国名はなぜ2音が多いのか」と不思議に思っている。キビ、アキ、ミノ、シナ、コシ、ケヌ、ムサ、フサ、ヒタ、ムツ、デワ、エゾなどだ。意味のない偶然に過ぎないか?



まきび公園の案内板の下に、巨大なタケノコが生えていて驚く。この地の特産を宣伝するモニュメントだった。関東に慣れた目で眺めると、西日本は竹林が実に多い。「がんばろう真備」と大書されたボランティアに感謝する看板が残っているほかは、水害の爪痕が目につくことはない。高梁川の土手に上ると、穏やかな川面が青空に輝いている。時折、流木をかき集めたような丸太の山ができていて、あの日の濁流の激しさを連想させる。(2022.4.3)
















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