今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1022 玉島(岡山県)若き日の良寛が立つ円通寺

2022-04-20 16:51:52 | 岡山・広島
倉敷市玉島の円通寺公園から瀬戸内海を見晴らし、私は越後・出雲崎の日本海との違いをしみじみ思っている。日本海だって凪いで穏やかに晴れる日はあるけれど、瀬戸内ではあの冬の荒海はおそらく見られないだろう。丘の頂の狭い境内に堂宇を収めて、円通寺は花に埋まっている。1779年、22歳の良寛は師の大忍国仙に従い、越後から善光寺・江戸・京都を経て玉島にやってきた。この風光の故郷との隔たりの大きさに、何を思っただろう。



良寛は1758年、出雲崎の名主家の長男に生まれている。その188年後に私は、良寛が壮年期を過ごした国上山の五合庵から15キロしか離れていない、西蒲原で生まれた。生家近くには良寛が友を訪ねて歌を詠んだ地もあり、私は勝手に「良寛さまとは縁がある」と思い込んで生きてきた。そして「良寛にはどこか日本人の原型のやうなところ、最後はあそこだといふやうなところがある」(唐木順三『良寛』)と感じるほどの年齢になった。



だから良寛の修行の地・円通寺を訪ねてみたいと思っていた。しかし「もう行く機会はないだろう」と諦めてもいた。今回の吉備路行は、真備の古蹟を訪ねることで終えるつもりでいたのだが、地図を見れば玉島は存外に近い。運転の妻に訊ねると、大丈夫よと進路を南に取った。円通寺は1200年前の行基創建と伝えるけれど、元禄時代に開山した曹同宗の寺院だ。優れた住職が連続したのだろう、高名な学問寺として多くの修行僧が集まったという。



良寛が受けたであろう「学問」は、禅学と共に漢文を読み、漢詩を作る訓練だったようだ。漢詩を理解するとは、その文字表現に含まれる意味・歴史背景を読み解くことであるらしい。だから膨大な知識・教養の裏付けがあって成立する文学であり、当時はそれが「学問する」ということであった。郷里では「名主の昼あんどん息子」と呼ばれた良寛であったが、現在は「良寛堂」と名付けられている衆寮で寝起きし、10年余の研鑽に励んだのだろう。



「円通寺に来て、どれほどの冬と春を重ねたことか。門前町は人口千人という賑わいだが、未だに一人も顔見識りがない。私は汚れた衣を自分で洗い、腹がすくと色町に出る。昔、高僧の伝記を読んだことがある。坊主の暮らしというものは、かなり貧乏なものだ」(柳田聖山『良寛』より)。そして良寛33歳、国仙の「印可状」を頭陀袋の奥に大切にしまい、放浪に出るのである。越後に帰った40歳ころまで、どこでどう生きたか分かっていない。



さて、良寛の有名な詩「生涯懶立身 騰々任天眞 囊中三升米 爐邊一束薪 誰問迷悟跡 何知名利塵 夜雨草庵裡 雙脚等間伸」はいつ詠まれたか。柳田は「印可を受ける前に国仙に観せていた」と言い、唐木は「五合庵在住の晩期のもの」とする。研究者でもこれほど異なる見解に、私が割って入るのはおこがましいけれど、やはりこれは円通寺時代、放浪に出る前の良寛の覚悟と考えるのがふさわしい。五合庵ではすでに騰々任天眞の世界にいる。



良寛が「人口千人」と描いた門前町は、今はすっかり閑散として、妙に懐かしい路地と家並みが続いている。良寛が眺めた玉島の入江は、港のクレーンやコンビナートの煙突が埋めて、往時の長閑さはない。ただ人の一生はいささかの変化もなく、「身を立てるなど懶(ものうい)ことで、のほほんと真の仏にお任せしてある」と言い切った良寛は、やはり「最後はそこだ」と思わせてくれる。私は良寛の年齢を超えた。これでさよならだろう。(2022.4.3)

(越後・出雲崎の生家跡で、佐渡を望む良寛)

(出雲崎 2006.3.16)

(同)




















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