今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

1087 足尾(栃木県)「あかがね」が造って消えた「足尾千軒」

2023-03-16 08:49:00 | 群馬・栃木
渡良瀬川を最上流部へ遡り、時間も500年ほど巻き戻してみよう。杣人らの倹しい暮らしの場であった奥日光南面の足尾山地は、1610年、銅鉱脈が発見されたものだから江戸幕府直轄の鉱山となり、谷は「足尾千軒」の賑わいに一変する。明治になって「古河」がやって来て新鉱脈を発掘、日本一の大銅山となって38000人の街に膨れあがった。山はそうやって富を産み、毒を流し、脈が尽き閉山する。今、人口は1600人を割り込んでいる。



足尾銅山の変遷を乱暴にまとめると、こんな具合になるだろうか。産銅と共に生きてきた街の歴史である。閉山からちょうど50年だというので、出かけてみる。二組の老夫婦と高校生らしい1人、それに私を乗せた「わたらせ渓谷鐵道」は、桐生市の相生駅から90分ほどかけて終着の間藤(まとう)駅に着いた。まばらな乗客は途中駅で下車し、最後まで乗っていたのは私一人だった。かつての足尾本山駅はまだ先だが、今は廃線になっている。



折り返し便で足尾駅まで戻り、古河鉱業の役宅などが残されている掛水地区を見物し、往時の賑わいの中心だった通洞駅まで歩く。駅近くの通洞選鉱所跡は産業遺産として残されているのだろうか、役割を終え、痛々しい姿を晒している。この間、見かけた人影は5人にもならない。昼食どきなのだけれど食堂もコンビニも一切ない。看板があっても全て閉じている。この短時間で何が分かるものでもないけれど、「足尾千軒」はもはや幻である。



鉱山の街らしく、粗銅の生産量と人口の増減は一致したカーブを描く。古河市兵衛が払い下げを受けた1877年、47トンだった粗銅生産量は新鉱脈の発見で一気に増加、足尾町が発足した1889年には4889トン、人口は11869人。そして1917年、生産量は15735トンと最大を記録、人口も前年には38428人とピークに達している。しかし鉱脈は細り、1973年に閉山。粗銅生産は105トン、町の人口は8699人に減っていた。



2006年、今市市や旧日光市の合併に合わせ、足尾町は新設の日光市に加わった。合併時の旧足尾町の人口は3162人。現在は当時のほぼ半数だ。帰宅して足尾小・中学校のホームページを開く。1950年代だろうか、運動会の写真は校庭を子供たちや応援の町民が埋め、足尾の谷が沸き返っている。そして先日の卒業式。体育館に集う児童・生徒・父母の数はすっかり減った。しかし卒業証書を受け取る生徒たちの、何と溌剌としていることか。



閉山後も坑道からの廃水や廃泥処理が続けられ、煙害で荒廃した山々は治山・緑化工事が進み、少しずつ緑が戻っている。地下の鉱物資源は、生活に欠かせない恵みをもたらすけれど、鉱毒被害を拡散する恐れが常に伴う。足尾の富で財閥を形成した「古河」も、田中正造や下流農民の訴えにもっと謙虚だったなら、後世に語り継がれる被害は抑えられたかもしれない。その禍根を残したことが、企業グループ「古河」の翳りになっていると(私は)感じる。



歩き疲れ、通洞駅前のバス停で日光行きのバスを待つ。正面の閉じたままの観光案内所の壁に「足尾銅山の世界遺産登録を目指しています」とある。その下に「この辺りが足尾の中心地・松原で、往時は昼夜の別なく人並みで賑わった」とも書いてある。標高640メートルほどの足尾の谷は、これからどうなっていくのだろう。産業の盛衰に人々はどう立ち向かったか、鉱害の教訓は未来の社会に生かされているか。生き証人・足尾である。(2023.3.8)




















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